選挙前になると、各政党から演説用ビニール傘のひきあいがあるというユニークな会社が、東京の田原町にある。
日本のビニール傘のフロンティアといもいえる「ホワイトローズ」だ。特に宣伝も何もうっていないが、次々と
運動員が訪れては纏め買いをし、選挙のたびに数百本は売れるそうだ。口コミのちからは素晴らしい
徳川幕府御用達の由緒ある傘問屋
実はホワイトローズの歴史は徳川幕府まで遡る。享保6年、甲斐の住人、武田源勝政が江戸駒形に出て煙草商人
となり。初代武田長五郎と名乗った。四代目 武田長五郎から雨具商に転向。五代目に至り、幕府御用を許され、
大名行列の雨具一式を大量納入した。
六代目中期より人力車の帆張り、天幕等も扱い、続いて和傘販売も開始。七代目に至り、本格的に和傘問屋とし
て盛にし、岐阜、紀州、久留米、高松等の各地で生産された和傘を中心として、国内屈指の業績をあげるに到る
斬新奇抜なプロジェクト
昭和二十年代、傘の主流は綿傘であったが、染色技術の未熟さゆえ『色おち』の苦情がたえなかった。ここで
須藤三男氏(前社長)は、進駐軍がもちこんだ「ビニール」に着眼した。
有限会社武田長五郎商店となってから、最初にして最大の一大プロジェクトは発進、
実はこれが現在のビニール傘開発の発端となる。
傘をまもるために傘にビニールカバーをかけるという、当時としては極めて斬新で、今となっては滑稽でも
あるアイデアであるが、このビニール製傘カバーは飛ぶように売れ、店の前では朝早くから長い行列が出来た。
挫折は栄光のエントランス
完全防水のスグレものということで、今度は大手店から「骨がみえる透明度の高いビニール傘」を納入してく
れという次のプロジェクトが舞い込む。ところがこの商談がリリース直前で頓挫するという憂き目に。
納入するあてもなき、沢山のビニール傘の
在庫をもってしまったのだが、今度はそれを上野から銀座界隈の路面店に、ゲリラ的に店頭委託販売の熱烈営
業をかける背水の戦略にうってでた。
これが運命をわけた。果たして、TVのモーニングショーで「銀座では中が透ける傘が流行しているらしい」と
紹介されるや否や、瞬く間に透明ビニール傘の存在は、全国に知れ渡ることになる。
ビニールというと間に合わせ傘や安物傘というイメージがあるが、
昭和40年代に売り出されたビニール傘は、シルクと同じぐらいの高級価格であった。
また様々な色や柄が印刷ができるということで最先端のファッションともなっていた。
ビニールは雨傘のひとつの極み
その原型は三菱とモンサントの技術提携会社が開発したもので、お馴染みのものでは「農業用ビニールハウス」がある。
透明で視界をさえぎらず閉塞感がない快適さ。暑さ寒さに強いという耐候性。糸状の従来繊維にたいして、
のし板状の組成であるので、雨が入る余地がない。防水性という点では大変合理的で優れた材料である。
高周波ウェルダー加工という方法で、
常板と真鍮の型のあいだに生地をはさみ、高周波のやりとりで接着をして、生地と生地を縫い合わせる。
そういった特殊技法のひとつひとつが積み重ねたホワイトローズの歴史そのものを物語る。
夢をおい、孤高の道を貫く
ポリエステルが主流の業界では、アウトサイダー、邪道と見られがちのビニール傘であるが、
須藤社長は目を輝かせてこう語るのである。
「ビニールが安っぽくみられがちなのは、その製造行程上で効率的な裁断作業ができるからにほかならない。
しかし、ここには雨傘を極めたひとつの解答がある。私はこれからもビニール傘を科学し、心血をそそいでいきたい。
ビニール傘は『文化』ですから」と。
ホテルのシャワーカーテン、家庭用エプロン、特殊照明用機材。意外な分野にもホワイトローズの技術は活きている。
高周波・超音波ウェルダー加工・縫製加工を用いて、多様化した消費生活の中に潤いと楽しさをプロポーズするのがコンセプト。
幕府のあつい信望を受けた傘問屋、武田長五郎商店の心意気 いまだ健在である
文章著作:宮武和広