心斎橋みや竹 匠の傘専門店 明治二十九年
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心斎橋みや竹ヒストリー

昭和初期のみや竹。当時流行の多間洋傘が立体的に展示されたモダンな店内
昭和初期のみや竹店内。当時流行の多間洋傘が立体的に展示されたモダンな陳列。

創業期

明治を貫いたベンチャー魂

高松からOSAKAドリームを抱いて移住した宮武次三郎(初代)。当時では命がけの冒険ともいえる渡米視察の旅より帰国し、 明治29年(1896年)心斎橋で「ミツワ」という輸入雑貨の商を興しました。インポートショップの先駆けともいえます。

モボモガ時代、大正の変革

大正時代に入ってモボ・モガのファッション風潮がおこる中、流行の最先端であった洋傘と肩掛(ショール)に特化した専門店となります。 この頃、心斎橋界隈だけでも20軒以上「傘と肩掛の店」があったそうです。

宮武和三郎(二代目)は固いイメージの「武」を風雅な「竹」に読みかえ「みや竹」と改名。 店主のたおやかな筆致の書がそのまま看板や包装紙となり、傘屋としてのブランドイメージを築いていきます。

戦禍を乗り越えて

昭和20年の大阪大空襲で店舗は消失しましたが、手持ちの小間物を売って商いを再開。昭和22年に同じ心斎橋で店舗を再興。 以降、和三郎(二代目)の熱意と不断の努力で傘専門店として甦りました。

繁昌期

「心ぶら」を牽引、みや竹最繁昌期

高度成長期と高級傘需要がリンクし、みや竹は黄金期を迎えました。 昭(三代目)は商店街会長として振興の旗を振り、須恵子(三代目女将)は和モダンの視点で店舗を大胆にリニューアル。「心ぶら」を楽しむ人々の心をとりこみました。

空間を駆使した斬新な展示が話題に

昭和60年、二度目のリニューアル。私、和広(四代目)のアイデアで、体育館のような高い天井で傘が宙を舞う展示方法を採用。業界の中でも「みや竹展示を見習おう」と話題になりました。バブル景気もあいまってこの頃までが繁昌期。

独自の展示手法01独自の展示手法02
今までの傘店のイメージを打ち破った独自の展示手法が話題に

衰退~時代変化の大きなうねりの中で

大阪花の博覧会(平成2年)の景気を最後に店の売上は下降します。バブルの崩壊、阪神大震災、そしてカテゴリーキラー的に登場した500円傘、それによる主要会社の倒産。傘専門店をとりまく環境は年々厳しさを増していきました。

また心斎橋筋商店街そのものも、時の流れとともに大きく変わりつつあったことも要因です。闊歩する人々の客層も年齢層も様変わりし、もはや老舗の専門店が商いを続けられる環境ではありませんでした。

電子商店期

心斎橋撤退~インターネットの大海原へ

一等地を去る現実と向き合う中で、立地条件に左右されないインターネットに活路を見出し、睡眠時間3時間でWindows95とHTML(ホームページを作成するための記述言語)を独学でマスターしました。1996年(平成8年) kasaya.com のドメインをアメリカで取得し「雨降って傘屋どっと混む(kasaya.com)」を立ち上げたのです。

当時まだネットで販売する店は全国で数えるほどしかありませんでしたが、どの店も大きな志とフロンティア精神を抱いていたように思います。

閉店直前の店頭
閉店直前の店頭

日本の職人傘のポータルサイトへ

1999年(平成11年)掲載商品のことで総輸入代理店(マスターライセンシー)よりクレーム。ブランド紹介販売をすべて差し止めらました。苦慮した末に品ぞろえの総見直しを決意した私は、「本物」と呼べる傘を求めて、各地の傘職人を訪ね歩き「日本の傘づくり」の情報発信ポータルサイトとしてリスタートしました。

日経MJ
「傘は人の集まり」日経MJの一面で紹介される

この職人行脚は見事に実を結び、幸運にもNHKから「ハイビジョンギャラリー~傘」主要ナビゲーターとしてお声掛けを頂いたのです。以降、各方面で職人傘に脚光があたるようになったことは嬉しい限り。出会えた職人さんから教えていただいた知識や情報、培った信頼が私の一番の宝ものです。

電子商店の健全なる普及へむけて

私の次なるミッションは「電子商店の普及」。当時まだネットで物を購入するのに不安をもつ方々も多く、払拭しない限り未来はないと思ったからです。 そこで運営ノウハウを全面的に公開し、初心者の方も参加できる会議室を開設。この取り組みが日経BP社に認められ、2000年(平成12年)「電子商店繁盛の鉄則」を出版させて頂きました。

本表紙三木谷さんと私
三木谷 浩史のおすすめ本「電子商店繁盛の鉄則」(2000年6月)
https://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/mikitani/0517.html

今までカタログ通販等で義務化されていた訪問販売法(現:特商法)のネット表記を最初に掲載し、提唱・推進したのも当店です。 電子商店普及ミッションのために、全国各地を講演で巡るようになり、これも大切なライフワークとなりました。

会津講演
2012年震災復興の会津講演で、全都道府県行脚を達成

日傘男子~21世紀のライフスタイル

今ひとつの重大なミッションは「男性用日傘の普及」。私自身 肌が弱くヘビーユーザーであったので、誰よりも効果と価値を知っていました。 1999年(平成11年)「男も日傘をさそう会」創設。ネットを中心に男の日傘の有用性を粘り強く提唱。

日傘男子の普及に全力投球
親しみ易い浪花のキャラで、日傘男子の増殖に全力投球

メディア対応やSNSでの情報発信も精力的にこなし、その成果もあって2011年(平成23年) 環境省が男性用日傘を公式に推奨、2013年(平成25年)「日傘男子」流行語大賞ノミネート、年々亜熱帯化する暑さも相まって、百貨店も売り場拡張、傘業界全体の「男の日傘」マーケットを押しあげることに貢献してまいりました。

スペシャリストが厳選した「男の日傘」https://www.rakuten.ne.jp/gold/kasaya/mens-uv/

老舗の看板
~二代目 宮武和三郎と飯田蛇笏~

老舗の看板

心斎橋の実店舗閉店まで店頭に飾られていた看板。樹齢幾百年の見事なその板に刻まれたたおやかな字は、俳人飯田蛇笏のものです。飯田蛇笏に師事し、老舗傘屋の灯を守る傍ら、宮武寒々(かんかん)という名で俳人として活躍したのが二代目 和三郎。
重厚温藉な人柄により有徳の俳人として没後も周辺の人々に慕われ続けています。
凛とした抒情を感じさせるまさに老舗の看板といえるもの。今は山梨県立文学館に所蔵されています。

~寒々の代表句~
秋山も大河も己が名を知らず
櫛忘れし汽車雪原を細く去る
すぐろ野を来し姪の靴大人びぬ
一人に逢へば一人の別れ露野かな
この食(じき)を今受くる手の月明かり
霜林(そうりん)の雉(きじ)日月と遊びけり
パンの穴のぞけば地球裏雪ふれり

ずらり並んだ「蛇笏一門」の俳人。左の真ん中が宮武寒々。
ずらり並んだ「蛇笏門」の俳人。左の真ん中が宮武寒々。
(山梨県立文学館の許可を得て撮影)

老舗を四代にわたってみつめ続けた看板と四代目のツーショット
老舗を四代にわたってみつめ続けた看板と四代目のツーショット。

ちょっとダンディな二代目 和三郎(宮武寒々)
ちょっとダンディな二代目 和三郎(宮武寒々)。

会社概要

社名 合名会社みや竹
所在地 〒557-0013 大阪府大阪市西成区天神ノ森1-19-11
※実店舗販売はいたしておりません。ご用命はネットより御願いします。
TEL 06-6656-1705
FAX 06-6656-1704
代表者 宮武和広
代表者プロフィール 昭和33年11月19日生まれ(蠍座)
大阪生まれの大阪育ち。大阪府立住吉高校卒、関西学院大学商学部中退。
家業は大阪心斎橋で100年続いた老舗の傘屋。そこの四代目。
裏の顔はキングレコード在籍のプログレッシブ・ロック アーティスト「ミスターシリウス」。担当楽器はギター、フルート、キーボード、ベースと多芸。
1996年営業不振のため閉店、以後独力でインターネットビジネスに活路を見出し、見事に老舗の看板を復興させることに成功。ネット通販の草分け的存在となる。電子商店運営のほか、講演で全国行脚をし電子商取引の健全なる普及につとめ、その功績が認められて様々な賞を受ける。各種メディアで匠の傘作りを精力的に紹介するスポークスマンとしても活躍し、現在は「男も日傘をさそう会」リーダーを務め、男性用日傘の普及に尽力中。
著書
電子商店 繁盛の鉄則(日経BP社)
電脳世界にお店を持とう(京都府中小企業総合センター編)
電子商店繁盛記(日経BP社刊)共著
創業 明治29年(1896年)
事業内容 傘販売
営業時間 月曜日~金曜日 9:30~20:00 ※年末年始を除く ※臨時休業日あり

受賞歴

「ベストECショップ賞」表彰盾
「ベストECショップ賞」表彰盾

「大阪市長賞」表彰盾
「大阪市長賞」表彰盾


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