ラピスラズリ「天空の破片」

神秘的世界を思わせる石、ラピスラズリは古代から現代にいたるまで数多くの伝説を生み、世界各地で人々を魅了してきました。

磨かれたラピスラズリの原石

ラピスラズリ―金色の斑点が輝く群青の石

ラピスラズリ―金色の斑点が輝く群青の石。 古代ローマの博物学者プリニウスはラピスラズリを「星のきらめく天空の破片」と表現しました。ラピスラズリの美しさを言い表すのにこれほどふさわしい言葉は他にはないでしょう。
神秘的世界を思わせる石、ラピスラズリは古代から現代にいたるまで数多くの伝説を生み、世界各地で人々を魅了してきました。 装飾品にとどまらず、工芸品や宗教的な儀式を行うための道具、鮮やかな青を描くための材料、時には薬や化粧品などにも用いられ、美しさと力を備えた石として人と長い係わりをもってきました。

ラピスラズリの語源と産地

ラピスラズリのラピス(Lapis)はラテン語で”石”、ラズリ(Lazuli)は”青”や”空”を意味するペルシャ語の”lazward”が語源です。スペイン語/ポルトガル語で青を意味する”azul”もここから来ており、イベリア半島が8~13世紀半ばまでイスラム世界であった名残が見られます。ラピスラズリの産地はアフガニスタン、シベリア、チリ、アメリカ、コロラド州など非常に限られており、歴史に古くから登場するのはアフガニスタンのバダフシャン産出のものです。

スペイン、セゴビア大聖堂と旧市街

化学組成

鉱物学的には、ラピスラズリとはラズライト(天藍石)、ソーダライト(方ソーダ石)、アウイン(藍方石)、カルサイト(方解石)、パイライト(黄鉄鉱)など複数の鉱物から成る青い石です。 星のように見える金色の斑点は黄鉄鉱、白いのが方解石です。

ラピスラズリの原石

ツタンカーメン王の黄金マスク

エジプトでは、紀元前3000年頃の墳墓から、この地では産出されないラピスラズリの装飾品や工芸品が数多く発見されています。有名なところでは、ナイル河畔の町ルクソールの対岸にある王家の谷で発見されたツタンカーメン王(紀元前1350年頃)の黄金マスクにラピスラズリが使われ、当時のままの美しい金と青のコントラストを見ることができます。

天空と冥界の神オシリスの石

ラピスラズリはエジプトにおいて天空と冥界の神オシリスの石とされました。ラピスラズリをはめ込んだツタンカーメン王の棺には死者の書の呪文とともにオシリスの像が描かれ、霊魂の流転再生の願いが込められました。他にも太陽と再生のシンボルである虫スカラベやオシリス神の鷹の頭を持つ息子ホルスの目がラピスラズリに彫られ、護符として用いられました。
また古代エジプト人はラピスラズリの持つ超自然的な力が病気にも効くと考え、眼病や鬱病、頭痛などの際に粉末にして塗布したり服用したりしたとパピルスに書かれています。 病気、怪我などが悪霊や呪いなどによって引き起こされると信じられていた時代にはごく当然のことです。

死者の書。古代エジプトで冥福を祈り死者とともに埋葬された葬祭文書 – Wikipedia

古代都市国家ウルの遺跡

メソポタミアでは、紀元前2500年頃、チグリス・ユーフラテス河のデルタ地帯に存在したシュメール人の古代都市国家ウル(現在はイラク)の遺跡、プアビ女王墓からはラピスラズリのネックレス、ラピスラズリとカーネリアンのビーズが付いた黄金の頭飾りなどが多数発見されました。

ウルのスタンダード。古代都市ウルの遺跡から出土した工芸品。ラピスラズリ、カーネリアンが象嵌されている – Wikipedia

聖書に記されたラピスラズリ

旧約聖書の出エジプト記には、祭司の装飾品のひとつである胸当てにはめ込む石として青い石(Sappir)ラピスラズリの記述を見ることができます。
また新約聖書のヨハネ黙示録には、世界が終末を迎えた後現れるとされる新エルサレムの都の神殿、東西南北12の礎にはそれぞれ12種類の石で飾られ、そのうちの2番目がラピスラズリであると記されています。この12種の石は現在の誕生石の元となりました。

エルサレム、嘆きの壁

海の向こうから来た青

ヨーロッパでは、ルネサンス期、ラピスラズリは「ウルトラマリン(海の向こうから来た青)」と呼ばれ、群青色の顔料として珍重されていました。ラピラズリから抽出したこの顔料は他のものでは同じ色を出すことができず、金と等価で取引されるほど高価なものでした。画家たちはこの鮮やかな青を聖処女マリアと子イエス・キリストのローブのみに使っていた時代もあったほどです。1828年にフランス人のJ.B.ギメ(西暦1795-1871)が人工的にウルトラマリンを合成することに成功してから、顔料としての需要は急速に衰退しました。

岩のドーム。預言者ムハンマドが昇天したとされるイスラム教の整地。南西壁の外側一部が嘆きの壁と呼ばれるユダヤ教の整地。

七宝のひとつ瑠璃

日本では、ラピスラズリは瑠璃と呼ばれ、仏教の七宝(金・銀・瑠璃・玻璃・しゃこ・珊瑚・瑪瑙)のひとつとされ、真言宗の開祖、空海(西暦774-835年)は瑠璃を守護石としていました。奈良、正倉院の宝物庫には、紺玉帯と呼ばれるラピスラズリで飾られた黒漆塗の牛革製ベルトが収められています。

チベット シガツェ、タシルンポ寺弥勒仏金剛座像

マルコポーロの記述

ジパング(日本)を目指したマルコ・ポーロ(西暦1254-1324年)はその著書「東方見聞録(原題/百万の書)」の中でラピスラズリを求め、その産出地であったヒンドゥークシュ山脈北部、バダフシャン地方のラピスラズリ鉱山を訪ねたことを次のように記しています。
「世界中でもっとも高品質なラピスラズリがこの地方の山で採れる ― そこへ行くには岩山の側面を切り出した細い小道を抜け、つり橋を渡らなければならなかった ― 銀の鉱脈のように縞状になってそれは現れた。」

パキスタンヒンドゥークシュ山脈、壊れかけた吊り橋を慎重に渡る少女

シルクロード

中国では、青金石、紺玉と呼ばれシルクロードを通って運ばれ絹などと取引されました。シルクロードという言葉は1877年にドイツの地理学者リヒトホーフェンが東洋と西洋を結ぶ隊商ルートをこう命名し、そのロマンティックな響きから広く知られるようになりました。中国産の絹を中央アジアのオアシスを通じて、イラン、インド、大消費地国であった当時のローマへ運ぶ交易路の一大ネットワークであることはいうまでもありません。歴史的に見ると、紀元前2世紀頃、前漢の武帝の匈奴討伐による西域の安定化がその後の活発な東西の交流のきっかけでした。

シルクロード

ラピスラズリ・ルート

絹がシルクロードを通じて東西世界を行きかうよりもはるか昔から交易路は存在しています。交易品としての絹の登場が、それまであった中国~インダス、インダス~メソポタミアの交易路を有機的に結びつけることになっただけで、当然、それ以前から交易路は存在していました。最近の調査では紀元前3000年以上前に存在した交易路が明らかになってきました。それが絹の代わりにラピスラズリを指標とした「ラピスラズリ・ルート」です。

パキスタン チトラール、シャンドール湖畔を行くロバと老人

出土品が示すもの

ラピスラズリはエジプトやメソポタミアの遺跡を始め、古代オリエントの居住跡のあらゆる層でラピスラズリが出土しています。ただしラピスラズリは古代世界においてバダフシャン地方でしか産出されません。
アフガニスタン国境に近いイラン南西部シャアリ・ソフタ、ここではこの地では産出しないはずのラピスラズリ、オニキス、カーネリアン、ターコイズなどの原石が見つかっています。ヘルマンド河下流に位置するこの居住跡は最盛期にはおよそ1万人以上が生活していたと考えられています。原石の他、加工済みの石、加工工具などが見つかっているところから、この地は石の加工場所であったようです。さらに面白いことに、ここで加工されたものは多種多様で、消費地となる民族にあわせたスタイルに作られているということです。ここからペルシャ湾に向かって下ったテペ・ヤヒヤの遺跡でも同じような状況であったようです。
※テペ/先史時代の住居跡が重なってできた丘

アフガニスタン、夕日でオレンジ色に染まるヘラート市街と金曜モスク

点を結ぶ

バダフシャン(アフガニスタン)、シャアリ・ソフタ/テペ・ヤヒヤ(イラン)、ウル(イラク)、ルクソール(エジプト)。これらの点を線で結ぶとアフガニスタンからメソポタミアを中継したエジプトまでの交易路が浮かび上がってきます。
ここで地図を眺めながら想像力をちょっと働かせてみることにしましょう。

ラピスラズリルート

― ラピスラズリ鉱山で掘り出された原石はロバの背上で揺られながら、ヒンドゥークシュ山脈の険しく細い道を下ってくる。
山麓の村や町で何度か積み替えられた後、加工地でいくつかの荷を下ろし、代わりに加工品を積んで、ペルシャ湾に向かう。
港で積荷を船に載せ、アラビア半島のいくつかの港に寄航しながら、チグリス・ユーフラテス河口まで航海する。
陸揚げされた積荷は河にそってメソポタミアの各都市へ運ばれることになっている。
このあたりは多くの文明が勃興しては滅びていったところだ。
ウル、ウルク、バビロン、マリ、聖書に記された町、歴史に記録されなかった町、背中に大きな荷を振り分けたラクダは廃墟となった町を悠然と通り過ぎていく。
ユーフラテス河をだいぶさかのぼり、幾度か荷物を積み替えた、シナイ半島へ向かうことになった。いくつかは地中海へ行くらしい。
点在するオアシスで休息をとりながら移動する。
ナイル河が見えた。ここまで来れば最終地点のルクソールまでは近い ―

ヨルダン ペトラ、エル・カズネ遺跡

アフガン商人の末裔たち

東南アジアの街角で色彩り彩りの貴石を窓から壁に所狭しと並べている店をたまに見かけます。華僑が経営しているところが多いのですが、ヒゲを蓄え、アラブ系の顔つきをした店主でラピスラズリのビーズが置いてあったら、恐らく彼はアフガン人です。ラピスラズリについて尋ねると、喜んで「このビーズは手作りで・・・」と話し始めるでしょう。
商品にはたいてい値札はついていません。
「いくらですか?」と値段を聞くと、こちらの目をのぞきこんで何か値踏みをした後、「○○だ」と答えます。
「・・・それはちょっと高いな、少し負けてもらえない?」ここから交渉が始まります。

パキスタン ペシャワール、風格あるパシュトゥーンの老人

彼はきっと「ほんのちょっとしか利益がないんだ」とか「こっちの方が色がきれいだろ?だから高いんだ」と言うでしょう。それを鵜呑みにしてすぐに言い値で買ってはいけません。これは恐らく何千年も前から繰り返されてきた彼らの常套文句なのです。たくましいアフガン商人の末裔たちは今なお健在です。

参考文献
「Beads」 Janet Coles and Robert Budwig
「パワーストーン百科全書」 八川シズエ
「宝石の写真図鑑」 キャリーホール