無農薬有機栽培茶専門店【茶の間】
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有機農業とは 長男が語る エコファーマー
 長男が語る
消費者との、ふれあいを糧として    北村 誠
 
平成8年、毎日農業記録賞で北村家の長男・誠さんが
地区優良賞を受賞された論文です。
 
はじめに
 空腹に耐えきらず、目が覚めると夜中の二時。製茶工場ではまだ汗を流して働く両親の姿。こんな生活の中で、茶業後継者としての道を歩いて行くことを決意したのは、まだ小学二年生の頃でした。あれから何の迷いもなく茶業の道を目指し、進むことが出来たのも多くの苦境を乗り越えていく両親の開拓者精神を間近に見ることができたからではなかったでしょうか・・・・。私の住むここ佐々町牟田原開拓地は、長崎県北松浦郡の南端に位置し、標高300mの場所にあり、現在は程良く整備され、遠くに平戸・五島・九十九島を望む風光明媚な所です。この地に茶畑をつくり始めたのは、父がまだ十九歳、戦後開拓の盛んだった昭和二十八年のことです。平戸の農家の次男だった父が茶業経営に夢をかけ、この地に入植した当時は、水も電気もなく、周囲はうっそうとした雑木林だったため、親戚一同からあんな姥捨て山に住んでどうする。苦労が目に見えている。」と大反対を受けましたが、その言葉がかえって父の心に火をつけ、単身で鍬をとりました。何年か後に、母が嫁いでくるのですが、「何でこんな山の中に嫁にきたね?」と母に問うと、「あんたよりウンとよか男じゃった」と笑いながら言います。しかし現実は厳しく、朝から深夜までの開墾や炭俵つくりの過酷な労働、食べるものも満足でなく、栄養失調になり流産の繰り返し。 「五年間は苦労をかける。と言われたけど、五十年の聞き間違いじゃったろうか。」と今では笑って答えています。そんな中、やっと生まれてきたのがこの私。父母にとって待望の男の子。それはそれは期待されておりました。
 
転 機
 両親の歩んだ道は険しいものでした。「もう有名産地の下請け生産はしたくない。何としても自園名の茶を売りたい!!」と考え、母は幼い私と弟の手を引いて毎日毎日何Kmもの道程を、炭坑住宅、佐世保の学校等へお茶の行商が始まりました。転機が訪れたのは二十五年前。佐世保の消費者団体が無農薬のお茶を作ってほしいと言ってこられてからです。今の時代のように、有機だ無農薬だのと言うことがない時代でしたので、家族でも大いに悩みました。当初の五年間は病気や害虫の大発生にあい、収穫量はそれまでの1/3。味もお世辞にもうまいとはいえないものでした。たちまち経営は悪化。朝夕の食事にも困るような有様でした。同業者や地域の人たちから「おまえ達は騙されている。無農薬の茶なんてできるわけがない。」などと言われ、なにくそ、何としても成功させてみせると思いながらも、逃げ出したかったのも本当の気持ちです。しかし、消費者の方々からのガンバレコール、食べ物の差し入れ、ご主人に内緒のへそくり援助、まだ若いご婦人方がモンペ・地下足袋姿での援農作業、等々、私達は裏切るわけにはいきませんでした。近頃では、あちらこちらで農家による観光農園、産直活動が見られますが、そのころの私どもの畑では、まさに命をがけ築き上げた消費者と生産者の絆が見いだせたのではないかと思っています。「ここの畑は私達個人のものではなく、皆さんの"ふるさとです」と私は今でも言い続けています。ちょうどそのころ、両親から「どうだ、後を継ぐか。」と言われましたが、いやとは言えませんよね?周りの方々から「後継者になろうと思ったきっかけは?」と聞かれますが、ただ一つ言えることは、「父母の茶園1こ対する執念」、 「感謝の心」ではなかったでしょうか。不作の年でも「今手入れを一生懸命やれば、来年はたくさん穫れるぞ。」。もちろん豊作の年は「ありがたい。お茶の木も一生懸命頑張ってくれたね。」と。「今年もだめだ」、「百姓では生活はできん」などと言う言葉は絶対に聞いたことはありませんでした。なかでも、お客様からのクレームは大切な意見が出るから、自分たちも大きくなれる、と関心を持って対応しています。
 
有機農業
 さて、私は十八歳で後継者としての修行に入りますが、まず第一に「立派な土」、「強いお茶の木」にしていかなければと、18歳なりに期待するところがありました。様々な本を読みあさり、微生物の専門家の話を聞きながら、有機栽培に取り組み始めました。しかしながら、とにかく恥ずかしかった。家畜の糞を集めたり、肥料・堆肥の材料にと山土や草木を収集するときに人に見られ、「金がないからあんなものを畑に入れている」と一笑われたこともありました。病気予防の米酢の散布、煮えたぎる釜のなかに草木を入れ、さながら「悪魔の呪い術」よろしく、忌避剤を作り、試行錯誤のなか、自分自身で選んだ道、方法だったのに、日に日に人の目がいやになり、殻に閉じこもる生活、そう、タマゴっちのようなものです。若かったのですね。しかし、「もっと心を開き、人を好きになりなさい。無農薬のお茶をもっとアピールしなさい。」との取引担当者の勧めで、あちらこちらの集会で商品説明に廻るようになり、緊張で震えていた足も何とか地につき、各地の農業専門家や農家の方々との交流もできる用になってまいりました。
 
二人の後継者
 私には五歳年下の弟がいます。大変に仲のいい兄弟です。確かに近所に友達がいるわけでなく、学校も六Km程離れているため、遊ぶのはいつも二人、特に父は「兄弟仲良く」を厳しくしつけ、友達と遊ぶときも、買い物、登下校、大人になってからはデートにまで、一緒に連れていくはめになりましたが。この弟がちょうど十五歳の時、私に向かい「どうせ僕は学校に行っても弁当食うくらいだ。兄ちゃんがお茶屋になるなら僕も一緒に一生懸命働いて金持ちになって、お母さんを日本一幸せにしてやろう。」と真剣な眼差しで語りかけてきました。二人の後継者が誕生したのですが、私は営業は好きでも生産や機械整備にうとい。弟は照れ屋で人前に出るのが苦手の職人肌。早く言えば、二人で一人前なのです。
 
金がない
 二十歳になってから父から帳簿を譲り受けましたが、中を見てビックリ。年商六百万円で三千万円の借金。こりゃだめだと嘆きました。「何のために農業高校でなく商業高校に行かせたか。どんぷり勘定をやめたいからだ。」といわれ、計画表を作り直し、見直してみると、借金は全部茶業への投資。飲み食い遊びの借金は「0」というのが救いでした。それでも父は思いつきでの投資の繰り返し。私は「ちょっと待って」のブレーキ役。普通の親子の正反対。ある日、資金繰りがどうしてもうまくいかず、涙を流したとき、母が「誠が暗い顔をするとみんなが憂欝になる。男ならもっと堂々としとかんと誰もお金を出さん。銀行が納得できる企画内容と熱意を持ってぷつかりなさい。」とハッパをかけられ、以来「悲しいことはサラリと流し、苦しいときは笑ってごまかす」を通しています。
 
産 直
 昔から母はお客様に食事を出すのが好きで、寿司や山菜料理、漬け物は自家製ときています。それを楽しみに来ていただく方も増え、山の上でも消費者の皆さんのバスハイク、地元学校の体験茶摘み、多種多様な生産者、組合等の視察と年間千人を越える皆様に来ていただいており、そのために見晴らしのよい場所に「自製公園」を作り、とにかく賑やかな場所に仕上がっています。肌で土や茶の木、おいしい空気を感じ、無農薬を確認していただくのが目的です。産直とは、商品売買に縛られず、心のふれあい、信頼関係に重点を置くべきではと考えております。
 
営 業
 「作ったお茶は自分で売る」をモットーに、消費者の方たちへの説明会、展示会、企業へのアピールを続けています。携帯電話3台、携帯端末機、FAXを車に乗せて忙しく走り回らせていただいております。これも家族や従業員が畑や工場でがんばってくれているからと感謝の気持ちでいっぱいです。最初は成果が現れず、「百姓が営業なんて」との反対もありましたし、いらいらもしましたが、ここ2〜3年、少しずつ数字も延び、「けがをしないように」と周囲からの応援もいただいています。百貨店ギフト、企業のPR商品、大手メーカーの缶飲料への原料供給、と斡旋、紹介をしていただいていますが、まだ販路の持ち方等、様々な問題が山積みの状態です。中でもダイレクトメールのように、せっかく個人の固定のお客様を持っているのに上手に生かせてないのが悩みです。
 
成果と喜び
 家族にとって大きな喜びの日がありました。1995年戦後開拓50周年における開拓努力の経営と、無農薬茶栽培の20年以上の歴史と独創的技術をご評価いただき、全国開拓振興協会、農林水産省から「農林水産大臣賞」「日本農業パイオニア賞」をいただきました。発表の日、今まで応援していただいた皆様からの歓声、拍手、電話。そして涙。東京虎ノ門での授賞式。これまで44年にも及ぶ両親の苦難と努力の成果、それに加えて関係機関を始め多くの消費者の方々の厳しくも、しかし暖かく支援していただけたからこその受賞だと思います。このことが我が家にとっての一つの大きな集大成であると同時に、21世紀に向けてのスタートになると考えています。新しいスタートをきるために、「我が家での新たな目標、方向をたてるべし」と意気込み、また「何でも一番はいいことだ」とのモットーで、佐々町の認定農業者第一号として認定をいただきました。心機一転、されど初心を忘れずに。「人を憎まず、世を嘆かず、努力を惜しまず」「ならぬ堪忍するが堪忍」
 


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