王妃シリーズ②
イギリスに渡ったポルトガルの王妃

前回の王妃シリーズ①では、イギリスからポルトガル王室へ嫁ぎ、大航海時代の基礎を築いたフィリッパ王妃についてご紹介しました。慣れない外国で夫であり国王であったジョアン1世を支え、立派に子供を育て上げたフィリッパ王妃。最期まで愛され尊敬され続けた女性です。

今回ご紹介するのは、フィリッパ王妃がイギリスからポルトガルに嫁いできた頃から約270年後のお話しです。

1580年以後、ポルトガルはスペインと同君連合になっていましたが、17世紀に入り再び独立の動きが高まっていました。この時、新しい国王として期待されていたのが、ポルトガルの有力貴族であった第8代ブラガンサ公です。彼はのちにスペインから独立を宣言しジョアン4世として君臨します。

この時、イギリスではピューリタン革命(市民革命)により混乱状態が続いていました。1660年、王政復古としてチャールズ2世が亡命先から呼び戻されましたが、王室の財務状況は良くありませんでした。そこでイギリス王室が目をつけたのが、多くの植民地を持ち繁栄していたポルトガルでした。第8代ブラガンサ公(のちのジョアン4世)は、イギリスとの同盟関係を強化するため、次女のカタリーナ(Catarina de Bragança)をイギリス王室に嫁がせることとしました。この時、カタリーナの持参金として、インドのボンベイ(ムンバイ)や北アフリカのタンジールがイギリスへ譲渡されました。この2つの都市は、その後のイギリスの世界進出の拠点として非常に重要な役割を果たすことになり、莫大な富をもたらすことになります。

イギリスに渡ったポルトガルの王妃

ポルトガルの北部、ブラガンサの宮殿で大事に育てられたカタリーナは、とても真面目で敬虔なカトリック教徒でした。チャールズ2世が王権復古をした際、イングランド国教会以外の宗教を認めないことが条件とされていたため、カタリーナは肩身の狭い思いをします。彼女がイングランド国教会のもと戴冠式が行われると知り断固拒否したことは、今でも語り継がれているほど有名です。現代まで続くイギリス王室の歴史の中で、宗教を理由に戴冠を拒否した王妃はカタリーナただ一人、といわれています。

カタリーナより8歳年上だったチャールズ2世は、彼女の美しさにとても惹かれ、生涯大事にしたそうですが、実はこの王様は超がつくほど女性好きで有名な人物でした。わかっているだけでも14人の愛人がいて、14人もの庶子をもうけていました。しかも、自分の愛人をカタリーナの女官に任命したり、同じ宮殿に住まわせたり・・・となかなか信じがたいことをしていました。しかも、カタリーナとチャールズ1世の間には子供が生まれず、彼女には計り知れないほどの苦悩があったはずです。きっと祖国ポルトガルに帰国したいと願っていたことでしょう。

そんなカタリーナの心を癒していたのが、ポルトガルが東洋やブラジルから持ってきたお茶とお砂糖でした。当時、イギリスの貴族の間でも、この2つは非常に高価でそう簡単に手に入るものではありませんでした。この時代にもお茶は健康に良いとされ、東洋の神秘薬とも言われていたそうです。それをカタリーナは健康のために、と惜しみなく飲んでいたのですが、当時のお茶は緑茶のように苦めだったため、カタリーナはそこに砂糖を入れることで嗜好品のように扱ったと言われています。しかも、毎日のように客人にふるまっていたため、それがイギリス貴族の中で大流行することに。さらに、カタリーナの持参金として渡されたインドのムンバイを拠点に貿易を始めたイギリスは、アジアから直接お茶を輸入することができるようになりました。このことが、後に「イギリス=紅茶やアフタヌーンティー」とイメージされる程の文化として根付くようになるのです。

1685年に夫チャールズ2世が亡くなり、しばらくはイギリスに残っていましたが、1693年にポルトガルへ30年ぶりの帰国を果たしました。1705年にこの世を去るまで、ポルトガルで弟のペドロ2世のもとで暮らしたそうです。

現代のポルトガルでは紅茶よりコーヒーが主流ですが、ここ数年で紅茶やハーブティーを出すカフェやレストランが増えてきました。健康的でおしゃれなものとして注目されています。

お茶は1ユーロ前後でもたっぷりお湯を注いでくれるカフェが多いです。

1人分でもポットで出してくれるカフェもあります。

一般家庭でも、午後のランシェタイム(17時~18時頃の軽食タイム)にはお茶を飲むこともあります。

ポルトガルからイギリスへ嫁ぎ、苦悩を乗り越え、紅茶文化をイギリスにもたらした王妃カタリーナ。そんな彼女のお話しは、今も語り継がれています。

前回のお話し、「王妃シリーズ①ポルトガルに大きな影響を与えたイギリス出身の王妃」については、こちらをお読みください。

それでは、また次回!