王妃シリーズ③
ディニス1世を支え、後に聖人となった
イザベル王妃

今日、ご紹介するのは慈悲深く王室にいながらも貧しい人々や病人に手を指し伸ばし続けた女性イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリアです。ポルトガル第6代の王様ディニス1世の王妃でした。

イザベルは、アラゴン王ペドロ3世と王妃コンスタンサ・デ・シシリアの娘として、1271年に生まれました。イザベルという名前は彼女の大伯母であるハンガリー王女エルジェーベトからもらったそうですが、この方はとても慈悲深く、自ら病院を建設して貧民・病人のために尽くしたそうです。彼女の死後、直後から様々な奇跡が起き、1235年に聖人となりました。
その大伯母と同じく、イザベルも幼いころから敬虔なカトリック教徒として1日2回のミサや病人への奉仕を欠かさなかったと言われています。

                                  聖イザベル王妃

1282年、11歳の頃に10歳年上のディニス1世と結婚します。美しく慈悲深い姫であったイザベルのもとにはいくつもの結婚の話が持ち込まれたと言われていますが、最終的に候補として残ったのがポルトガルのディニス1世でした。18歳で王の座についたディニス1世は大変のやり手で、王権強化を進め、貴族・聖職者の権力抑制することで、ポルトガルの大半の土地を把握したと言われています。土地台帳を作成し、荒れた土地を開拓させ、ブドウをはじめとする果物等の農作物を作らせました。さらに防風林として彼がレイリア海岸沿いに植えさせた松は、その後、大航海時代の船の材料として重宝されることになります。またディニス1世は詩人としても知られる程、文学にも明るく、これまでラテン語で書かれていた公式文書をポルトガル語に書き換えるよう改革しました。その時に、今のコインブラ大学の前身とも言われる一般教養学院をリスボンに設立しました。

このように様々な実績を残したディニス1世に愛されたイザベル王妃。オビドスをはじめいくつもの町をプレゼントされる程、夫婦仲は良かったと言われています。ただディニス1世は不道徳な一面があったそうですが、彼女の慈悲深さは変わらず、結婚後も貧しい民や病人への奉仕を欠かしませんでした。

オビドスを紹介したこちらのコラムでも書きましたが、イザベル王妃が人々にパンを渡すため頻繁に夜中部屋を離れるのを見たディニス1世は王妃の浮気を疑います。ある日、こっそりとパンを隠し王宮を出るイザベル王妃に、ディニス王は「何をしているのだ」と問いかけます。とっさに王妃は「あまりにも庭のバラが綺麗なので部屋に飾るために摘んでいるのです」と答えます。「そんな嘘に騙されると思っているのか。その手に持っているものを見せなさい」と、王妃が隠していたパンのかごの布を取ると、そこには本当にバラが入っていたのです。このパンがバラに変わった奇跡は、ポルトガルの中部でスペイン国境付近にあるサブガル城(Castelo do Sabugal)で起こったと伝えられています。

サブガル城

サブガル城のすぐそばには、この奇跡を伝えるアズレージョが飾られています。
パンをスカートに隠していた、と伝えられる場合も多いです。

イザベル王妃は2人の子供を生み育てますが、カスティーリャ王国に嫁いだ娘は24歳の若さで亡くなりました。長男のアフォンソは、父ディニス王が庶子サンシェスを特に可愛がっていたことを恨み、1320年に父を相手に反乱を起こします。この時、仲裁に入ったのがイザベル王妃でした。5年後にディニス王が亡くなるとアフォンソ王子はアフォンソ4世として即位します。夫が亡くなった事で、イザベル王妃は残りの人生を貧しい人や病人のために尽くそうとコインブラの修道院へと引退しましたが、息子のアフォンソ4世とカスティーリャ王と対立すると、再びスペイン国境に近い町エストレモス(Estremoz)に向かい仲裁することになりました。結果、2国間の和平をもたらしましたが、この長旅と騒動でイザベルの体は弱りそのまま息を引き取りました。

彼女は亡くなった後も埋葬されたコインブラで奇跡が起きたと言われ、約300年後に聖人の地位に上がりました。現在は聖イザベル王妃と呼ばれ、コインブラの守護神として崇められています。お墓は新サンタ・クララ修道院(Mosteiro de Santa Clara-a-Nova)にあります。

聖イザベラ王妃の奇跡については、ポルトガルの各地で言い伝えられています。彼女が設立した病院もあり、ポルトガルの町を歩いているとイザベル王妃を描いたアズレージョなどに出会うことがあります。今でも人々から尊敬され愛されている王妃なんですね。

それでは、また次回!