吉の字椀・奥田志郎|和食器の愉しみ・工芸店ようび|夏は家派!

私の内(なか)のお椀

 お椀が好きでたまらない。だからお椀を商うことがうれしい。うれしくてたまらないことが職業なのだから、こんな幸せなことはないと思っている。お椀のことになると語りたいことがあふれて来て、とりとめなくなってしまうのをお許し願いたい。

 先日、ベン・ニコルソン展を見た。ゴブレットや水注、コップなど、認知可能な限り簡略化された線の構成に、一瞬心が濾過されるのを覚えながら、なぜかベンにはお椀は画けないだろうと思った。私は大急ぎで店に帰って、ウィンドーに並んでいる椀達を、始めて出合うもののように視た。椀のフォルムとして私の中に生きていたのは、彼の画く器の外側のフォルムではなく、内側のそれだったことに気がついていた(椀の内側を見込という)。

 椀は見込が生命(いのち)だ。深くて豊かな丸み、あったかーい。母なるフォルムだ。その道の評論家達に「情緒的に過ぎる」と笑われるだろうけれど、椀にふれて感じる安心感は、誰の胸にも去来する、そんな根源的な感情ではあるまいか。

 写真(上部)の椀は、土地の素地に漆をぬりこめて行っただけのごく素朴なものである。漆工の兄野田行作が、二十余年も前から同じ手法で造りつづけている椀で、私が二十年近く毎日のように使ってきたものである。

 この椀を見ていると、利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう)の「侘びの文」を思い出す。「正直に慎み深く、おごらぬさまを侘びと言う」。侘びやさびとは、ひねこびた、古びたものではなく、見せようとする意識のない、ごくあたりまえのものなのだと言っているのである。

 こんなものが各産地の方々の、さまざまな手法の中から生まれてくれれば、と望むけれど、やはりよく見せようとする気持ちに抗しきれぬものが多いのは、残念なことである。幸いにして、こんな椀を商うことの出来るしあわせに恵まれたのだからと一生けんめいなのだけれど、使う方に解って貰うのは、又大変である。しかし「ふだん使いにこんな椀がほしかったの」と言ってくださった奥様もあった。始めてで充分なご説明もしなかったのに、一つの椀を手渡せば、後は言葉はいらない。椀がすべてを語ってくれる。

 十一月、新嘗祭(にいなめさい)そして勤労感謝祭、米つくる人、ものつくる人への新たな感謝をこの椀に盛る。

工芸店ようび 店主 真木

このコラムは、1977年「マダム」(鎌倉書房)に連載されたものです。

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