No.04 表情豊かな土瓶と急須
     
 私の店をタタキ台にして出入りして下さる若い陶芸家の方々に、いつもよい急須や土瓶を造ることをおすすめする。
 これらのものは、いろいろの要素があって、そのすべてを満足させなければ、モノとして完成しない。他のどんな器よりも「でなくてはならぬこと」が多いわけである。口は注ぎやすく、水切れがよくなくてはならぬ。手は持ちやすく、しかっりと付いていなくてはならぬ。それに付随して口と手の角度のよしあし、蓋はつまみやすく、茶ガラの出やすい大きさでなくてはならぬ。湯の重みを考慮して、それ自体はあまり重くならぬように。安定もよくなくては困る、といった具合である。
 これらの一つ一つを満足させていくことによって、いろいろの修練を積んで貰えるわけである。用の勝手を充足させることが、即ち雑器造りの修行のすべてであるとは思わないけれど、これだけは、最低の必須条件なのである。これらが充足されて、始めて形の美しさや肌の味わい、描かれている模様が云々される。
 急須は大量生産されているものの中に大変使い勝手のよいものがある。用いやすいのが何よりだからと、使っている方が多い。やせぎすの用のみ満足させたものばかりでは、心が荒れる。しかし用を満足させぬ日用品はもっと困る。
 陶匠浜田庄司氏が、車中で食べられたアイスクリームスプーンを「よく出来ている」と大変感心されていた話を同席されたある奥様から聞いたことがある。もちろんその場を得た、用としてよく出来たものだったのだろうけれど、そんなものを見落とさない眼におどろかされた。見聞きする身辺のことごとへの偏見のなさが、あれほどに豊かなものを生む源なのだろうと思う。しかしこのような感性は、持とうとして持ち得るものではない。
 いろいろの用の限界の中で、やっと出来たこれらの急須や土瓶が、比較的自由な皿や鉢よりも、その人らしい表情をもっているのは不思議である。かえってその人のもっている本性を凝縮されることになるのか。どんなに不自由な約束事にしばられても、決して同じにはでき上がらない。ボーボーととぼけた表情のもの、キリリとひきしまったもの、ずんぐりと健康(すこやか)なもの、のびやかなもの、おどけたもの。と。
 この人間社会のさまざまな限界の中で、私はどんな表情(顔)を持ち得るのかしら。
 ふとそんなことを考えてみる。
 
工芸店ようび 店主 真木啓子
このコラムは、1977年「マダム」(鎌倉書房)に連載されたものです。





粉引急須
粉引急須 
粉引急須
 
梅急須
梅急須
梅急須
 
アメ釉土瓶
アメ釉土瓶 
アメ釉土瓶
 
二色十草土瓶
二色十草土瓶
二色十草土瓶
 
染付暦手急須
染付暦手急須
お茶碗