4月25日革命から見るポルトガルの歴史

もうすぐ4月25日。
皆さん、この日が何の日かご存知でしょうか。

ポルトガルではこの日、40年以上続いていた独裁政権を終わらせるために革命が起きました。ほとんど犠牲者が出ることがなかった無血革命で、兵士が銃口にカーネーションを挿したことからカーネーション革命とも呼ばれています。

もう44年も前のことですが、独裁政権を生きた世代が今のポルトガルの基礎を作ったと私は感じています。ポルトガルについてより理解するためには、この革命の意味やその後この国に起きたことを知っておくと見えてくることがあります。

ポルトガルの歴史を振り返るとざっくりと5つの時代で見ることができます。
①建国時代
②大航海時代
③独立が失われた時代から王政が終わるまで
④サラザール時代
⑤現代

ポルトガルが国として独立した存在になったのは、1139年のこと。当時進められていたレコンキスタ(イスラム教徒からの国土回復運動)やカスティーリャ=レオン(現在のガリシア地方あたり)との戦いで活躍したアフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)が、初めてポルトガルを独立した国として宣言しました。

「ポルトガル、ここに誕生す」と書かれた有名な城跡。ギマランイスにあります。

その後、771年もの間王政が続き、35人の王様が国を治めました。中でも、多くのポルトガル人にとって誇りでもある大航海時代は、1383年から1557年頃のことを指します。この時代、ポルトガル人はどんどん海外に出て世界との交易を進めました。日本には1543年に到着、1557年にはマカオに到着しています。

大航海時代と言えば、エンリケ航海王子が有名です。

栄光を謳歌したポルトガルですが、セバスチャン1世の時代からポルトガル国政は混乱します。祖父と父が早くなくなったことにより3歳で即位したセバスチャン1世は、チャレンジ精神旺盛で勇気がありました。しかし、自我が強く他人の忠告を受け入れない性格でした。十字軍に情熱をかけ多額の資金を投じましたが、1578年にイスラム軍に大敗し財政を圧迫させる結果を招きました。この戦いでセバスチャン1世は行方不明になり、戦死したとされました。彼には子供がいなかったため、叔父のエンリケ1世が王位を継ぎましたが、エンリケ1世にも世継ぎがいなかったため、ポルトガルはその後1640年まで、スペインと支配下に置かれることとなります。

17世紀に入るとスペインからの独立を求める声が国内で高まり、1640年にポルトガルの名門ブラガンサ家の貴族が中心になり、ジョアン4世を即位させることで独立を取り戻します。しかし、独立を失っていた約60年間で、以前築いていたアジアをはじめとする海外での地位はすっかり衰退してしまいました。スペインやフランスとの対立関係から、この頃よりポルトガルはイギリスとの結びつきを強めていきます。余談ですが、ジョアン4世は娘のキャサリンをイギリスのチャールズ2世のもとに嫁がせました。この時、キャサリンがお茶を持っていったことから、イギリスで紅茶文化が根付いたと言われています。

その後、18世紀に植民地だったブラジルにて金が発掘されると、ポルトガルは再び黄金期を迎えます。この時代に今でも町に残る豪華なバロック様式の教会や建物が多く建てられました。しかし、ポルトガルで鋳造した金貨の多くは国内産業のために使われず、イギリスに流れたとも言われています。この金貨は18世紀半ばに産業革命が起こったイギリスにとっても重要なものでした。また、この時期、リスボンでは10万人が犠牲になるリスボン大地震が発生し、首都は大きなダメージを受けました。

19世紀に入るとフランスのナポレオン軍の侵攻が本格化します。しかし、ポルトガル王室は側近や関係者を含め、ブラジルに避難してしまいます。そしてなんと首都をリオデジャネイロに移してしまったのです。残されたポルトガル北部の国民は、イギリスの支援を受けながらナポレオン軍と戦うことになりました。見事、ナポレオン軍を打破しますが、その後は実質的にイギリスの支配下になってしまったのです。

もちろん、この状況に国民たちの間に不満が募り、立憲君主政への動きが強くなりました。 1822年9月、憲法が正式に発布され、さらにポルトガルからの分離運動が強まったブラジルは「ブラジル帝国」として独立することになりました。 その後、19世紀末に世界でアフリカ分割の動きが高まり、ポルトガルの植民地もアンゴラとギニア・ビサウ、モザンビークに限定されることになります。この植民地戦争の中で、ポルトガルの財政は非常に厳しい状況になり、共和制が必要だと唱える人々が反王制運動を始めます。当時の国王との対立が強まり、1908年ついに国王が暗殺されてしまいます。

その後、マヌエル2世が国王になりますが1910年に共和派が反乱を起こすと、国王はイギリスに亡命します。こうしてポルトガルの王政は終わりを迎えます。そして共和制国家(第一共和政)が発足したのでした。しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ポルトガルはアフリカへ侵攻するドイツに宣戦し、軍隊を現地に派遣しました。このことが国家の財政を圧迫し、さらに内政の混乱を招くことになります。次第に国民は第一共和政に失望し、新しく強い指導者を求めるようになるのです。

この流れで1926年に軍隊によるクーデターが起き、軍事政権が誕生することになります。この時、コインブラ大学の経済学教授であったアントニオ・サラザールが財務を担当することになりました。鋭い政策で見事に財政を黒字にし、1929年の世界恐慌の影響を最小限に抑えたことから、多くの国民に支持されることとなり、1932年に首相に選ばれました。

1933年以降、サラザールはエスタド・ノヴォ(新しい国家という意味)という独裁政権を確立しました。「国民同盟」という唯一の合法政政党を創立し、カトリック教会、ルシタニア統合主義者、ファシストなど右翼を結集させ、実質的に保守的な独裁制権を作り出しました。国民に対しては、3つのF、ファミリア(家族)・ファド(ポルトガルの大衆音楽)・フットボール(サッカー)が大事だという意識を広めたことでも知られています。第二次世界大戦では中立の立場を取りながら連合国側へある程度協力的な姿勢を取り、ポルトガルを戦争の混乱から守りました。しかし、戦後はもっぱらポルトガルの植民地との交易を中心に行うことで、西欧諸国から遅れを取り経済は停滞していきます。

さらに1961年以降、植民地であったアンゴラやモザンビークで独立革命軍との激しい植民地戦争が続けられ、戦費が財政を圧迫し、国民の不満は募るばかりでした。 国家のお金を使い、なぜ植民地の人々の命を奪っていく戦争に行かなければいけないのか・・・国軍の青年将校たちもそんな気持ちを抱いていました。そんな中、1944年生まれのサルゲイロ・マイア大尉は、29歳という若さで独裁政権にクーデターを起こす「国軍運動」(MFA)の創立メンバーとし革命を率いました。

彼の真っ直ぐな行動は多くの軍人の心を動かし、特に若い兵士たちが支持し後に続きます。 マイア大尉は、「革命は無血で行われるべきだ」と常に主張し、無駄な争いをせず冷静に計画を進めました。彼が欲しかったのは本来の意味での自由。革命後の地位でもなく、ポルトガルに自由をもたらしたかったのです。1974年4月25日の明け方、革命を決意したMFAのもと、マイア大尉はリスボン郊外の兵舎で兵士を集めこう言います。

"Meus senhores, como todos sabem, há diversas modalidades de Estado. Os estados sociais, os corporativos e o estado a que chegámos. Ora, nesta noite solene, vamos acabar com o estado a que chegámos! De maneira que, quem quiser vir comigo, vamos para Lisboa e acabamos com isto. Quem for voluntário, sai e forma. Quem não quiser sair, fica aqui!"
(すでに君たちもわかっているように、この世界には色々な形の社会がある。社会主義、資本主義、そして私たちが今いるこの社会。今日、この静かな夜、私たちはこの社会を終わらせようとしている!私に賛同するものは、これから一緒にリスボンへ向かおう。無理強いはしない、行きたくないものはここに残るように!)

これを聞いたほとんどの兵士が、マイア大尉の後に続きました。リスボンに到着するとすぐに要所を占拠し、MFAは当時の首相マルセロ・カエターノ氏に冷静に交渉を行っていきます。共和国警備隊本部に包囲された首相はその日の夕方には為す術もなく投降し、独裁政権は終わりを告げました。マイア大尉は、「このミッションに関わろうと決めたとき、どんなことがあっても最後までやり遂げる、まさに命を懸けて遂行しよtargetうと覚悟を決めた」と言っています。まさに有言実行のヒーローですね。

カーネーション革命とマイア大尉をテーマにした『Capitães de Abril』(2000)という映画があります。日本語訳はありませんが、雰囲気だけでもこちらを御覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=O2MJxj06kho

リスボンのテージョ川に架かる橋には、4月25日橋という名前がついています。

こうして40年以上続いた独裁政権は終わりました。このカーネーション革命はあまりにも有名で、ポルトガル人も誇りに思っています。ただ、革命後何が起こったかは、実はポルトガル国外にはあまり知られていません。1976年までは各派の権力闘争が激しく内政は混乱。更に植民地で仕事をしていた多くのポルトガル人が職を失い、ポルトガルに帰国しました。その後、国内で就職できなかった人の多くが、イギリスやフランス、ルクセンブルグなど西欧諸国に出稼ぎに移住することになるのです。

以上、ざっくりとしたポルトガルの歴史でした。
ポルトガルの印象を、人が優しく少しシャイ、何だか懐かしい、と言う方が多いのは、こんな背景があるからかもしれません。

好きな国や町のことは歴史を知るとより身近に感じられますね。

それではまた次回!