土佐和紙の起源

土佐における製紙の最古の記録は、醍醐天皇の延長5年(927年)に完成した「延喜式」の中にみられます。製紙原料である楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)などの育成に適している気候風土のため、製紙業は着実に発展し、農家の重要な副業となっていきました。

土佐藩御用紙

慶長5年11月(1600年)、山内一豊が土佐国主として、浦戸城に入りました。まもなく土佐藩は、成山、伊野の両村に御用紙漉きを置いて、製紙業を土佐の産業の中心にする制作を進めていきました。

明治維新前後

坂本龍馬が土佐藩を脱藩する2年前の万延元年(1860年)、土佐和紙業界の恩人と呼ばれている吉井氏が大型簀桁(すけた)を考案しました。これにより、紙の生産量が飛躍的に増大し、土佐藩の財政が大きく改善しました。

明治の土佐和紙

時代は明治になり、富国強兵政策の元、新政府と何らかの関係を持つ特権資本などの新規の起業家によって、全国各地で洋紙の大量生産が始められました。従来からある小規模な土佐の地場産業は、洋紙業界と競合しないために、機械漉き和紙という高級品を作る産業へ発展して行きました。

河野製紙の創業

明治25年(1892年)、河野栄三郎が伊野村にて製紙業を始めました。大正10年のころには、二代目・冨助が庄屋橋近くの菊楽で職工19人を雇い、河野製紙工業という小規模なマニュファクチュアを経営していました。

昭和初期の発展

震災恐慌、世界恐慌と、長引く不況に耐えてきた河野製紙所は、昭和9年4月、新工場を建設して抄紙機を導入し、機械化工場としてスタートしました。昭和 12年頃、一菱商店社長・小松徳太郎氏の話にヒントを得て、楮の繊維を短く処理してから機械漉きした新製品を開発しました。手漉きに比肩する紙質なのに安価であったため、全国で評判となりました。栄三郎の創業より45年を経て、ようやく飛躍のときを迎えました。そして、この新商品の包装紙には、小松徳太郎氏と河野冨助の頭文字「T・K」を菱で囲んだ商標が押されていて、それ以来、一菱商店と河野製紙との信頼関係は現在に至っています。

第二次世界大戦

戦況が悪化してきている戦争末期、政府から製紙工場を統合するよう命令されました。そこで、河野製紙所と塩田製紙所と三浦商工の工場部門を加えて、高知製紙株式会社が設立されました。陸軍及び海軍の指定工場となり、軍関係の製品を生産していました。

戦後の混乱

敗戦によって、パルプ資材の60%を保有していた樺太をパルプ工場ごと失い、パルプを入手できるかどうかが経営の明暗を分けるようになりました。昭和23 年、高知製紙株式会社は、パルプ工場の建設を開始しました。2億円事業であるパルプ工場建設の完成間近の昭和25年1月、折からのインフレや戦後経済の混乱の中、資金調達に狂いが生じ、高知製紙株式会社は倒産してしまいました。

更なる挫折

河野冨助、楠一親子は、家を残してすべてを失いました。楠一は、金星工業・四国銀行の助けを借りて、金星製紙の設立に参画しました。しかし、昭和30年2月、楠一は役員を解任されてしまいました。

再び河野製紙所の出発

昭和30年6月、古い工場を買い取り、楠一自らが工事を行い、同8月にようやく試運転ができました。しかし、業績は芳しくなく、家を売って資金を調達しました。そのころ、楠一は富士紙業の熊野社長の助言で、高級家庭紙の新製品の研究開発を始めました。当時、紙を柔らかくするためのクレープ(しわ加工)は、厚目の紙にしか施すことができませんでした。楠一は、薄い京花紙にクレープをかけるために、試行錯誤を行いました。昭和33年、セミクレープ京花紙「鈴」を開発しました。

河野製紙株式会社の設立

セミクレープ京花紙「鈴」はたちまち評判となって、高度成長にも支えられ、順調に業績を伸ばしました。昭和36年5月31日、資本金200万円の河野製紙株式会社を設立し、楠一が社長に就任しました。それまで秘密にしてきた製造ノウハウを公開し、高知県の「製紙王国」の復活に向けてスタートしました。そして、昭和42年頃には、高知県は家庭紙において「製紙王国」への復活を果たしました。

ティッシュペーパーの登場

昭和38年山陽スコットが、翌39年には十条キンバリーが操業を開始し、ティッシュペーパーが登場しました。昭和40年、河野製紙は100ダブルティッシュ「マナー」を発売しましたが、全く売れずに在庫の山ができました。当時はまだ、ティッシュが消費者に認知されていない時代でした。そこで、楠一の息子・矩久は、ポリ袋入りティッシュや、金融業界のノベルティ商品等を生産することに活路を見出しました。

埼玉工場建設

昭和43年11月、埼玉工場が竣工しました。大消費地に近い場所に工場を持つことで、価格競争力を得るためです。昭和46年、当時公害問題が大きく取り扱われるようになったのを受けて、埼玉工場2号抄紙機の設備投資計画を取りやめ、いち早く公害対策を行いました。

オイルショック

昭和47年4月、楠一は皇居にて黄綬褒章を授章しました。昭和48年、オイルショックが起こり、狂乱物価と言われるインフレのために原料費が高騰していました。11月には、トイレットペーパーが不足するという嘘や報道が増幅されて、トイレットペーパーを買い求めるパニックが起こりました。翌49年には、買い溜めされた反動で、大幅に売り上げが落ち込みました。昭和47年にすでに、京花紙の生産量は、ティッシュの生産量に逆転されていましたが、パニック後は完全にティッシュの時代になりました。

試練

河野楠一の死去に伴い、矩久が社長に就任しました。就任早々の昭和50年8月、台風による集中豪雨で浸水し、倉庫の在庫が全滅しました。翌51年、再び集中豪雨が遅い、再び倉庫の在庫が全滅しました。そのようなときに企画された「アヴォンリーティッシュ」は好調で、肝心なときに河野製紙を支えました。昭和 52年3月、商品企画、ノベルティ商品の開発を行う子会社、株式会社グリーンゲイブルスを設立しました。大手メーカーとの熾烈な競争にさらされる中、一歩一歩進んでいきました。

創業100周年

平成4年、河野製紙は初代栄三郎の手漉き開業(1892年)以来、創業100周年を迎えました。明治以降の高知県製紙業界の栄光と挫折は、常に地域的なハンディキャップと、中央の特権的大資本とを意識した戦いの結果でした。戦いの方向を、大資本とも大量生産とも無関係な、特殊紙の開発に向けて熱意を注ぐことで、成功をおさめてきました。

保湿ティッシュの開発

開発のきっかけは、河野製紙4代目・現社長の矩久自身の鼻炎でした。「肌の弱い方、頻繁に鼻をかむ方に安心して使えるやさしい紙はできないか」と谷口健二研究員に相談し、2年がかりでつくりあげたものです。この技術は特許として認められています。平成5年に発売して以来、おかげさまで毎年順調に売り上げを伸ばし、「保湿ティッシュの河野製紙」としてみなさまに親しまれて、現在に至っています。

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