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2015/08/25 16:51
前回の続きです。
タクシーの運転手さんのおかげで無事棚田さんの家を訪問することが出来ました。
南北に走る幹線道路の上側です。
この地域は天竜川に向けて緩い斜面になっており東向きに建てられた邸宅は
朝日が良く当たる見晴らしの良い場所にありました。
一歩玄関をくぐると、ケヤキをぜいたくに使った上り框や廊下に迎えられます。
その華美でない質の良さ、漂う心地良い空気に、家主の人柄が伝わってくるようでした。
立派な座敷に通されてお茶をいただきながら、早速、お話を伺いました。
昭和18年11月、ミャンマーのダウェーに到着。
翌年19年3月にはマンダレーの空港に着き、
そこからフーコン作戦が行われているカチン州方面に飛ぶ戦闘機を点検整備し送り出しておられたそうです。
当時はまだ20歳そこそこの若さだったものの、飛行機整備などの技術をお持ちだったので、
(練成飛行隊に所属していたとのこと)戦闘の第一線に立つことはなく、命の危険にさらされる機会は少なかったそうです。
(下って 終戦後捕虜となり大変な苦労をされることとなりますが ここでは省略させていただきます)
私は新聞にて記事を読んだときの印象から、
「死の谷」と言われるフーコン渓谷や翡翠鉱山、
琥珀や翡翠のお話もお聞きすることができるかな?
と期待していたのですが、残念ながらそれはかないませんでした。
しかし、棚田様には大変勇気づけられるお話をたくさん伺うことができました。
ご本人は90歳を過ぎた今も非常に前向き、活動的でおられます。
趣味の陶芸は師匠格ですし、詳細は省きますが 現在も写真のような色紙を書いて希望する方に上げているそうです。
やれば出来る
この言葉、よく見、よく聞く言葉でしょう。
しかし、筆舌に尽くしがたい苦労に耐え抜き、90歳になった今も明るく前向きに
生きている方のものだからこそ、重みと価値が違います。
棚田さんを訪問する機会を得たことで、また新たに勇気づけられました。
最終更新:2015/08/25 16:51