記事詳細
2013/04/10 17:33
雑誌の原稿一生懸命書いていまして先日終わりました。
およそ5000文字、もの書きの方にとってはなんでもないことでしょうが
本職でないだけに大変でした。
内容はミャンマーの宝飾ビジネスや翡翠の歴史とかです。
中には初めての情報も含まれていますから関心のある方には面白い内容かと思います。
雑誌名は今月末までお待ちください。(発売は5月上旬予定)
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ミャンマーの真珠と日本人の歴史
日本人がビルマ(ミャンマー)の地に初めて上陸したのははっきりしたことはわかりませんが
明治10年ごろと言われます。
1886年 イギリスがビルマ全土を植民地にし、1891年イギリスの真珠業者チール氏が
ビルマ最南端のアンダマン海メルギ諸島(北緯8°27分~13°10分)が海産物豊富な価値
ある地域として時の政府に働きかけ、5区画に区分し採掘権をセリにかけ決定したのです。
これがビルマの真珠産業の始まりと言えます。
1893年、真珠採りに来たのが日本人とミャンマー真珠との関係の始まりです。
海中に潜っての真珠取りはすでにオーストラリアのアラフラ海で盛んに行われていて、大勢の日本人
(主に紀伊半島出身者)が働いていました。
ビルマに来たのもここオーストラリアからでフィリッピン人と共にオーストラリア人に連れて
こられました。
以後数年で一旦引揚げますが、再度来るようになり次第に人数も増え、中には家族ごと来る人もおり、
大正末期には350人がここに滞在していたといいます。
当時この地域だけで「日本人会」が出来ており、死亡者が多かったのか尼僧 村上妙清さんが
お経をあげにわざわざヤンゴンから来ています。
当時はダイバーに船上から空気を送り採取していたのですが潜水病の知識もなく経験に頼るのみで
非常に危険な仕事だったのです。
天然真珠はそう簡単に採れるものでなく白蝶貝の貝殻で採算をとっていました。たまに銀白の真珠
が採れると大変高価で売れたのです。1,912年(明治45年)当時大豆大、重さ15カラット、銀白のものが
1万3千ルピー(当時1ルピーは約60銭)だったそうです。
現在はダイバーに大変人気のある地域ですが当時は現地人が素潜りで貝を取っていたくらいですから
潜水服を着用しての白蝶貝採りは非常に収量が多かったものと見えます。
当時の貝の大きさにも目を見張ります。
直径、25~38Cm、厚さ2.5~5Cmがふつうだったといいます。 (この大きさのものは現在はミャンマー
でもほとんど見ません)
まだまだ書きたいことが一杯ありますが今回はこの位にします。
参考
大阪朝日新聞 1912年6月20日他
注 村上妙清 さんは大正14年から3年間インド、セイロン、ビルマの巡礼の旅をしています。
当時の旅行記に類するものはほとんど無く貴重な文献です。
何時か改めてご紹介します。
昭和18年『入竺比丘尼』を出版
最終更新:2013/04/10 17:33