記事詳細
2013/04/05 14:37
今から90年ほど前の大正時代、日本で翡翠がどの程度認識されていたのか?
また、在ビルマの日本人がどのような人たちだったのか端的にわかる新聞記事を見つけましたので
一部をコピーしてお伝えします。
-----------------------ーーーーーーーーーー
なおビルマからは翡翠が出る。
これはホンコンで加工するためにホンコンみやげといわれホンコンで出来るように思われていますが
豈計らんや私のところから出る。その輸出額は年八百万円に達しています。
翻ってビルマにおける四百五十人の日本人の事業について申上げれば大商店では三井物産会社、
日本綿花会社、千田商会などがあり、正金銀行及び華南銀行の支店も存在し郵船会社の出張員が
おり大阪商船、山下汽船の代理店がある。
そういうのはみな米が出るために必要なので、二月から五月までの間は殆ど六隻七隻の大きな船が
私のところの港にとまっているので甚だ多忙を極める。
月給取の日本人はせっかく来てもいつ帰るか判らないのであてになりませんが土になりますという
決心をして来ているいわゆる土着の日本人は甚だたのもしい。
それ等の人々の生活状態はどうかというと小さい雑貨店を開いたり、または医師や歯科医をやって
甚だいい収入を得ている。殊に医者と歯医者は如何に収入が少いといっても四、五千円、
よくはやれば八千円位はあります。
歯科医も甚だ少数の上に間に合せの偽歯科医が多いので甚だ困るがほんとうの歯科医が来てくれれば
いいと思う。
その他は労働者として真珠貝を捕るのがあるそれはマビーというところにおいて真珠漁業をやるものが
あるので七十人ばかりの真珠取がおって盛んに捕っている。
多分皆さんがネクタイピンなどになさっている真珠は私のところから来ているのかも知れませんが、
その真珠は日本人がとっていて、他のものは決してはいれないということであります。
そういう形勢で決して日本人は苦しんで生活しておらない。また熱帯国であるから病気があるというが、
なるほどビルマにはペストもあり佝僂病もあり熱帯病もあるが北方にまいりますと日本とちっとも
気候が違わない。
桃の花が咲き桜が咲きます。私の知人が一人農園をやっているがそれが日本から梨の苗木を取寄せて
植たところが毎年成熟するというので私のところにも送って来ますが立派なものがとれます。
大阪毎日新聞 1926.11.6-1926.11.28
-----------------------ーーーーーーーーーー
カチン州で採掘された翡翠がヤンゴンに運ばれるようになったのは1900年といいます。この年ヤンゴンから
カチン州州都ミッチーナまで鉄道が開通したのです。
香港はイギリスが支配していましたから海路運んでいたわけです。当時すでに輸出額が800万円という
高額になっていたとは驚きです。
また、真珠も早くから日本人と関係が深く興味をそそられるお話もありますので次回ご紹介させていただきます。
最終更新:2013/04/05 14:43