記事詳細
2012/09/13 18:19
上 故宮環形玉器特展図録 より
和氏の璧についてはご存知の方が多いと思います。
インターネットで検索しても複数のページがヒットしますしその充実ぶりは
5年10年前と比較にならないほどです。
昔見ただけという方は改めて見られたらいかがでしょう。
さて、璧の中で最も有名なのがこの和氏の璧、
一度読んだら決して忘れないであろうエピソードが二つもあるのだから・・・・。
「完璧」という言葉もこの話からといいます。
さて、その璧の原石ですが 春秋時代楚のベンカという人が楚の山中(現在の湖北省 荊山)で見つけた。
それを楚のレイ王(れいおう)に献上した。レイ王は玉の専門家に鑑定してもらったところ価値のないただの石
と判定した。レイ王は怒ってベンカの左足を切る刑に処した。
それから時は過ぎてレイ王が亡くなり武王(BC740~BC690)が即位したので武王だったらこの玉の価値を分って
くれるだろうと
献上した。しかし、またしてもただの石だという判定。罰として右足を切られてしまった。
それからまた時が過ぎて武王が亡くなり文王(BC689~BC675)が即位した。
ベンカは荊山の麓で得た玉を抱きかかえて3日3夜泣き続けた。それを聞いた文王は泣いている理由を
問わせた。
ベンカは「刑を受けたのが悲しいのではありません。この素晴らしい玉をただの石と言われ本当のことを言って
いるのに嘘を言っていると言われているのが悲しい」と答えた。
それで改めて調べさせたところ本物の玉であり璧をつくり和氏の璧(かしのへき・たま)と命名し宝物とした。
時代は下って戦国時代 趙の恵文王(BC310~BC266)がこの壁を手に入れたが 秦の昭王(?~BC251)から
15の城と和氏の璧と交換しようと持ちかけられたのはあまりにも有名です。
さて、その玉の原石ですが翡翠(硬玉)だった可能性はないだろうか?
BC800年ごろといえば日本の縄文時代晩期から弥生時代前期に相当するころ、九州では鉄器が使われるように
なったころに重なりますから当時中国と交流があったに違いない。
翡翠の勾玉も中国に知られ、璧ができるような大きさの翡翠が中国に運ばれた可能性があるのではなかろうか?
当時専門の玉の加工職人もいて中国で採れるいろいろな玉(軟玉)もすでに広く知られていたに違いない。
和氏の璧が宝物と広く知られたのは素材、デザイン、彫刻技術が最高であり適度の大きさでなければならない。
このうちデザイン、彫刻技術は多少の差はあれ、どこでも最高のものができる。
となれば名器かどうかは玉の質によるのではなかろうか?
中国のあちこちで採れる玉は産地ごとにどのような特徴があるかよく知られていてそれによって格差がつけられて
いたに違いない。
和氏の璧だけが有名なのはどういうわけか?
荊山の玉は 極端に産出量が少なかったのだろうか?
ある程度産出するのだったらベンカも50年以上秘蔵していた玉のみが
最高のものだとは言わなかったのではなかろうか?
そう考えていくと日本の翡翠の可能性もあるのでは?
と考える。
当時ビルマから齎された可能性はほとんどないに違いない。
「後世、 当時の遺跡から翡翠(硬玉)の璧が発見されたならきっと
それが和氏の璧かどうか論争になる可能性がある」でしょう。
「荊山の玉」という言葉がある。
辞書によれば意味は「高価な宝石のような人」という。
この言葉が玉として最高のものという意味もあるかもしれない。が・・・・。
いつか荊山にも行ってみたい!
古代世界を逍遥するのも楽しいですね。
最終更新:2012/09/13 18:19