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2011/04/05 15:56
今回は翡翠をちょっとお休みして全く別のお話です。
元首都ヤンゴンの郊外から首都ネピードーを通ってマンダレーまで高速道路が開通しました。
今回は初めてこの道路をマンダレーに向け走りました。
広くゆったりとした直線道路 日本では作ろうにも作れない道路だけにちょっとうらやましいです。
朝8時半ごろですが 車の影はしばらく見ることがありませんでした。
上 途中の休憩所 メイティーラという町の近郊です。
すぐ横に大木があり旅する人の目印であり憩いの場になっています。
こんなに立派な大木はこの道路数百キロの間では1本も見かけませんでした。
そうなんです。
部落や町の近郊には田んぼや畑を見ることができますがそれはごく一部であって、
大部分は低い灌木がまばらにあり枯れた草原が広がる荒野なんです。
大木の木陰で涼む地元の人たち とはいってもちゃんと商売しているんですよ。
おばさんはブドウやウズラの卵を売っているのだし男性は車のタイヤの空気圧を点検するのです。
中央奥に見えているのがボンベとコンプレッサーです。
もう遠い昔になってしまいましたがこの周辺で英軍との激しい戦いがありました。
(もう10年以上前、まだミャンマーのことをほとんど知らなかった頃、この話の主人公と行動を共にした元兵士の話
が今でも鮮明に印象に残っていますので少し書かせていただきます)
昭和20年3月から4月、ちょうど今頃の季節です。
インパール作戦が失敗して退却時のことです。
「3月10日、マンダレーに入り市街戦になった。このころには皆、極度の栄養失調でがりがりに痩せ、着衣はボロボロ。野良犬同然だった。女学校の塔に上り敵の戦車後方の兵隊を狙撃したがもはや大勢は明らかであった」(私の履歴書 45ページ)
ついにマンダレーを捨て南に逃げメイッティーラ市街に入り休んでいた時です。。
戦闘機が来たとの知らせに彼は火の見櫓に上り機関銃で敵機と真正面から戦ったというのです。
敵から最も目立ち360度逃げも隠れも出来ない場所で敵と戦ったその勇敢な行動に目の玉が飛び出るほど
驚いたそうです。
私がここメイティーラに来たのは大震災の3日後の14日です。
この大木の下で塚本氏の行動に思いをはせることが出来たのは特別な感慨がありました。
「神様は塚本がかわいいからひいきして殺さなかったんじゃーあるまい。日本を立て直す上で多少でも必要と
認めたから生かしてくれたに違いない。 つまり生かされたんだ」。
「預かりものの人生や。ようし、とことんやったるゾ”」(私の履歴書 16ページ)
この主人公はワコール創業者 塚本幸一 氏です。
氏は終戦後始めた仕事は模造真珠のネックレスやブローチ、水晶などアクセサリーだったそうです。
私の履歴書を読み返し亡き氏に改めて親近感がわいてきました。
最終更新:2011/04/05 15:56