episode.8
輝く日々と、胸の疼き
季節は進み、吹き抜ける風には少しあたたかさが混じるようになってきた。枯れ木にはまだまだ冬の気配が残るものの、そこには春の兆しをまとった日差しが降り注いでいる。
「いらっしゃいませ!」
boar's coffeeのお手伝いをする週末も、もう何度目だろう?
ここに通い始めてから、確実に私の日々は変わった。
「今日もラテにされますか? 新豆も入荷してますよ」
boar's coffeeの常連さんは良い人たちばかりで、常連さんと会話しながらご主人が淹れたコーヒーや直実さんと開発した新商品を売っていく時間が、本当に幸せだ。
「お姉ちゃん!」
可愛い声に呼ばれて、私は胸を高鳴らせながら振り向いた。
そこにはコーヒー好きの両親に手を引かれた小さな男の子がいた。彼もまた、このスタンドの常連だ。
私は膝を折って、男の子と目線を合わせる。
「今日も来てくれたのね、ありがとう。ホットミルクにする?」
「うん! クッキーある?」
スタンドの奥からは焼き菓子が焼ける良い香りが漂ってくる。
「もちろんあるよ!」
私は男の子の小さな手を引いて、立ち上がった。
「悠ちゃん、変わったね」
クッキーの紙袋を大事に抱えながら帰っていく男の子を見送ってスタンドに戻ると、直実さんからそう言われた。
「そうですか?」
直実さんは穏やかに微笑みながら売れたクッキーやカヌレの補充をしている。
「表情が変わったよ。明るくなった。前はちょっと暗かったもの」
ズバッと言われてたじろぎつつも、嬉しい気持ちがこみ上げる。
「直実さんのおかげです」
「ふふ。今晩は楽しみましょ!」
「はい!」
「お疲れ様でした~!」
その日の閉店後、ご主人と直実さんと私は、行きつけのビストロで祝杯を上げていた。この1週間でboar's coffeeは過去最高の売上を記録していて、お祝いに飲みに行こうということになったのだ。
「ほんっとうに! 悠ちゃんのおかげー!」
直実さんははやくも酔いが回ったのか、そう叫ぶとビールを高々と掲げた。ご主人はいつも通り無口だけど、既にジョッキの半分はなくなっている。
ショップカードを作成し、新商品毎にパッケージをデザインし、本業が休みの土日には店頭にも立つ。スタンドを手伝い始めてからの忙しさは想像以上だったけれど、直実さんの夢の実現に少しでも役立っていることが、私は嬉しかった。
「そうそう、悠ちゃんに相談しようと思っていたんだけどね」
一通り飲み食いした後、直実さんが切り出した。
「アルバイトを1人雇おうかと思うの。悠ちゃんのおかげでお店もだいぶ忙しくなったし、平日も私たち2人では手が回らないことが多くてね。
アルバイト募集の張り紙、デザインしてもらってもいいかな?」
「もちろんです」
私は快諾した。…ように見せた。
平日はスタンドのお手伝いには行けないから、その平日が忙しいのならばアルバイトを雇うのは当たり前のことで、むしろ喜ばしいことだ。
「できれば将来自分もお店を出したいとか、コーヒー業界で頑張りたい人がいいな。
そういう人の方が私たちも刺激になるし、任せられるようになるまでが速いから」
最後に直実さんが言ったその言葉が、小さな小さな棘になった。
その棘は私の胸に刺さり、むくむくと育っていく。
「分かりました。早速取り掛かりますね!」
直実さんはきっと私の心の内には気が付いていない。…気が付かれない方がいい。
私はあくまでも普段通りを装いながら、味がしなくなったビールをグッと飲み干した。