episode.6
悠のひらめき
ビストロでたっぷり飲み食いした私たちは大満足で家路につき、自宅で湯船につかりながら私はぼんやりと直実さんの言葉を思い出していた。
「悠ちゃんは将来的にどうなりたいの?」
「…それは "将来の夢" 的なことですか?」
お花屋さんになりたい。アイドルになりたい。
子供のころは何も考えずにそう言えていた。
「もちろんそれも大事だけど、もっと大事なのはどんな自分で在りたいかっていうこと」
「在りたいか…」
それは難しい問いだった。
なんとなく、今の会社で勤め続けるにあたっての未来予想図みたいなものはある。担当業務、役職、勤続年数。
だけど、それをこなしている自分がどんな自分か、ということまでは考えたことがなかった。
(いや、違う)
私は浴槽に持ち込んだキャンドルの揺れる灯りを眺めながら、自分の思考を修正する。
(考えたことがなかったんじゃなくて、考えることを放棄していたんだ)
子供のころ、学生のころ、社会人になりたてのころ。
あの頃は、なんとなくでも理想とする自分を持っていたような気がする。
専門学校に入学したらこんな自分、仕事をはじめたらこんな自分、はたちになったら、30歳になったら…と。
だけど、社会に出て生きていく忙しさや厳しさで、いつしかそんな思考を手放してしまったように思う。
…その方が楽だったから。
直実さんはきっとそれを考え続けて、少しでも理想とする自分に近づけるよう歩み続けてきた人なのだろう。だから、彼女は輝くような笑顔で笑えるのだ。
今の自分に満足して納得しているから。
それでいて、自分の未来はもっとよくなっていくという希望を信じて疑わないから。
(私はどうなりたいのかなぁ)
脳内に埋め尽くされた答えの出ない問いを振り払いたくて、私はキャンドルの灯りを吹き消した。
軽くのぼせてしまったお風呂上り、私は直実さんにビストロで渡された紙袋をダイニングテーブルの上に持ち出した。
その中にはいつものお礼にと頂いた新作のコーヒー豆と、試作品の焼き菓子が入っている。この焼き菓子の感想を直実さんに伝える約束をしているのだ。
紙袋の中身を取り出しながら、私はふと思う。
(ショップカードとか、作らないのかな…)
思わず友人知人に配りたくなるようなおしゃれなショップカードがあれば、口コミはもっと広まる気がした。
今はショップカードはおろか、紙袋に申し訳程度に店名のロゴが記載されているだけ。
直実さんが懸命に開発している焼き菓子たちの包装も簡易なもので、boar's coffeeで売られているものと一目で分かるようなデザインではなかった。
(なんで今まで気が付かなかったんだろう!)
私は身体の中が熱くなるのを感じた。
あの素敵なお店を、素敵なご夫婦を、直実さんの理念が詰まった大切な場所を、たくさんの人に知ってもらいたい。
その価値が、そうできる可能性が、きっとあのコーヒースタンドにはある!
私はおもむろにノートを取り出し、手書きでショップカードの図案を書いていく。
ついでに商品のパッケージに使えそうな絵柄や、調子に乗って立て看板のデザインまで考えてしまった。
私は夢中だった。こんなに夢中になってデザインしたことは、本当に久しぶりだった。
それは子供のころ、お絵かきに熱中した感覚に似ていた。あの時の私と今の私は、同じ熱に浮かされている。
その時、体内に宿った熱が何を意味するのかは分からなかった。そこに大事な意味があるとすら思わなかったけれど、私はそれを後々知ることになる。
その夜の私はただ、目の前に突然降ってきたひらめきに身をゆだねていた。