episode.5
直実の過去と、"なりたい自分"
ワイングラスを傾けながら、直実さんは語り始めた。
「私は専門学校を出た後、コーヒー専門店に就職したの。仕事は本当に楽しくて、20代の頃は朝から晩まで働きづめ。
主人からは猪突猛進だってよく叱られるんだけど、やりたいと思ったことは良くも悪くも全力でやってしまう。
無理が祟ってベッドから起き上がれなくなったのが、ちょうど悠ちゃんの年齢のころね」
直実さんはワイングラスを置くと、ふぅ、と息を吐いた。
「あの頃ほど、辛い時期はなかった。休めばまた働けると思ったけど、身体は言うことを聞かない。天井を眺めながら泣くばかりで、結局お店には復帰できなかった。
…本当に、ショックだった」
直実さんはきっとその時期の頃を思い出しているのだろう。
いつもの明るい笑顔が消えて、瞳には何か思いつめたような鈍い光があった。
「その頃は、毎日毎日必死で考えた。
私は何をしたいのか、どうなりたいのか」
「どうなりたいのか…」
無意識のうちに直実さんの言葉を繰り返していた。
直実さんはふっと柔らかい表情になった。
「私が幸運だったのは、主人がいてくれたことね。”0か100か”な働き方しかできない私に、ペースを緩めることを教えてくれたのは彼だから。
だけど、結局体が元気になると何かしたくてムズムズしちゃってね。
コーヒーの仕事がしたくて仕方がなかったけど、またお店で働くのも違うような気がして、未来が見えないことにイライラしてた」
私は内心驚いていた。
彼女にそんな時期があっただなんて、信じられなかったのだ。
「その頃は近所や旅先のカフェ巡りばっかりしてた。
全国からお豆を取り寄せては研究して、コーヒーに合うお菓子にも興味があったから、毎日のように焼き菓子を焼いて、また突っ走ってるって主人に怒られたりね。
そうそう、あのカヌレの原型ができたのもその時期ね。
でもやっぱりカフェを経営するには資金がいるし、無理をするとまた体を壊してしまうかもしれない。
もう無理かな、私には趣味でコーヒーを楽しむくらいが合ってるのかなって諦めかけたとき、旅行先でとあるコーヒースタンドに出会ったの」
それは、きっと直実さんにとって運命の出会いと言っても良かったものだったのだろう。彼女の目の輝きが、それを物語っていた。
「これだ、これをやるべきだって、その時直感した。それまではカフェと言えば客席があって、お客さんがゆったりくつろいでいて…というイメージばかり持っていたんだけど、それは私の思い込みだったの。
私は自分のお店がもし持てたら、お客さんには日常を忘れてゆっくりして、自分を取り戻すような時間を過ごしてほしいって思ってた。
そのためには客席がないとって思ってたんだけど、そのスタンドに来ているお客さんたちはみんなゆったりした雰囲気で。
客席がなくてもそんな場は作れるんだ、だったら私はその中心にいる存在になりたいって、その時気が付いたの」
直実さんが "なりたい自分" を見出した瞬間。
それを感じた私の腕には、気づくと鳥肌が立っていた。
「そこからは、お得意の猪突猛進ね!」
そんな直実さんが目に浮かびすぎて、私は思わず笑いながら彼女の空になったグラスにワインを注ぐ。
「そこからどうしたんですか?」
「まずは、そのスタンドで働かせてもらうことにした。家から遠かったから、主人とは一時期別居した」
「えっ!?」
「だって、やる以外の選択肢はなかったもの。数か月修行してから物件探しをして、紆余曲折がありつつも、boar's coffeeのオープンにこぎ着けたってわけ」
「…すごすぎる」
私が言葉を失っていると、そう? と言いながら直実さんはさっき注いだワインを飲み干してしまった。
直実さんの話を聞いて、なんだか元気をもらったような気がした。
私は自分自身について色々と決めつけ過ぎていたのかもしれない。
「悠ちゃんは今とても大事な場所にいる。苦しいかもしれないけど、大丈夫。あなたはあなたらしく、生きていけるわ」
それは力強いエールだった。
私も彼女のような”なりたい自分”を見つけたい。
私は強くそう思い、胸の中にふくらんだ希望を大切に握りしめたのだった。