episode.4
悠と直実
boar's coffee に足繁く通ううちに、私とスタンドの奥さん ―― 直実さんは、単なる店主とお客という以上に仲良くなった。
ご夫婦はなぜか私のことを買ってくれていて、様々な試食品を作っては感想を求めてくれた。
あれは確か、新作のブレンドコーヒーを試飲をしていた時だったと思う。珍しいゴールドのフィルターで淹れたブレンドは舌の上でとろりと溶けるようで、私はその風味にうっとりとしていた。
「悠ちゃんは、会社でどんな仕事をしているの?」
突然直実さんにそう聞かれ、私は現実に引き戻される。
えっと…それは…等とうまく答えられずにいると直実さんが不思議そうな顔をしたので、まずは事実をありのままに伝えることにした。
「インテリア関連のネット通販会社で働いています。職種はデザイナーですが、デザイン以外にも必要な業務は色々やります」
ざっくりとした伝え方だったけれど、直実さんとご主人はなるほど、どうりで、と納得顔だった。
「悠ちゃんって視野が広いなと思っていたの。
試食の感想も、単なる味のことだけじゃなくて、利益が出るのか、このお店の雰囲気に合うのか、客層に好まれるか、作業工程は多すぎないか…って、色々なことを考えながら話してくれるでしょう?」
そう話す直実さんの横で、ご主人もうんうんと頷いている。
全く思ってもみなかった方向から褒めてもらって、私は嬉しさと戸惑いがない交ぜになる。
「そんなに大きい会社じゃないから、担当以外の業務もみんなでやらないと会社が回らないんです。
前職はひたすらデザインだけをやり続ける会社でしたから、今の会社のスタイルはとても気に入っているんですけど…」
ついそこで言葉を濁してしまって、その先が出てこない。
胸の中のモヤモヤを、どうこの場で表現したら良いものかが分からなくて、私はそのまま黙ってしまった。
「お仕事に悩んでるの?」
私の様子から察したらしい直実さんにそう言われ、私は思わず頷いた。
「嫌なことがあるわけじゃないし、人間関係も業務内容も気に入っています。
…だけど、なぜだか分からないけど、最近モヤモヤすることが多くて」
全く何も説明できていなかったけれど、それ以上のことはうまく話せそうになかった。
直実さんを見ると、そういう時期ってあるわよねぇ、となぜだか感慨深げだ。
「そうだ!」
突然直実さんが大きな声を出し、私とご主人はびくぅっと身体を硬直させた。
「悠ちゃん、今度一緒にごはんでも行きましょうよ。
いつもこうやって協力してもらってるんだし、私たちも何かお礼をしなくちゃね。
「金曜日の夜はどう? ね、そうしましょう!」
直実さんは楽しそうな様子で私が返事をする前からスマホのカレンダーアプリで予定を確認し始めている。直実さんはとても押しが強いのだ。
もうこうなったら行くしかないね、という顔で、ご主人がニヤッと笑った。
ご夫婦が普段行きつけにしているというビストロで、私たち2人は大いに食べて、飲んだ。
「それで? 悠ちゃんはどんなことに悩んでいるの?」
他愛もない話が途切れた瞬間にそう切り込まれて、私は思わず唸る。
「…自分でも、うまく言えないんです」
直実さんはうんうんと頷きながら、続きを待ってくれている。
「今の会社は2社目の会社なんです。前の会社は大きな会社で、私はデザイン部の下っ端で、ひたすら指示されたデザインをこなし続ける毎日でした。
良い経験にはなったんですけど、段々自分がしていることが分からなくなってきて転職しました。
もちろん今の会社もデザイン以外のことも勉強できて良い環境です。だけど、今のままでいいのかなって、最近迷うんです」
「悠ちゃんはどうしたいの?」
そう聞かれて、私はぐっと詰まる。
どうしたいのか、何がしたいのか、どうなりたいのか。
きっとそれが分からないというのが、一番の問題なのだ。
「少し、私の話をしましょうか?」
「…え?」
急にそう言われ、私は直実さんの顔を見た。
「あのスタンドをオープンするまでの、紆余曲折と涙と感動の物語」
ふざけたような言い方に思わず吹き出しつつも、私はぜひ、と続きをねだった。
私より一回り年上のこの人がなぜ boar's coffee を開こうと思ったのか、なぜいつも少女のようなキラキラした雰囲気で楽しそうに仕事ができるのか。
そこにある秘密を、私は知りたかった。
直実さんの物語。
素敵なビストロで聞いたその話は、結果的に私の心を大きく揺さぶることになったのだった。