episode.3
悠の迷い
1週間後の休日、私はいつも通りboar's coffeeを訪れていた。口コミが広まっているのか、スタンドのお客は着々と増えていっている。客足が途切れるのを待って、私はカウンターの内側で立ち働く奥さんに声をかけた。
「こんにちは」
「あら! 悠ちゃん!」
奥さんはいつもの少女のような笑顔で迎えてくれた。
「先週はカヌレをありがとうございました。感想をお伝えしようと思って来たんですけど、今大丈夫ですか?」
奥さんは一層嬉しそうな顔をして頷くと、ご主人を呼びに行くと言って店の奥に引っ込んで行った。
彼女を待ちながら、私は1週間前に食べたカヌレの味わいを思い出してみる。やっぱり今考えてもあのカヌレをこの奥さんが作ったとは思えなかった。
どういう意図であのカヌレを試作したのか、その背景を知りたいと思った。
「お待たせ!」
奥さんに引っ張られるように連れてこられたご主人は少し不機嫌そうに見えた。
「で、どうだった? 悠ちゃん」
奥さんはカウンター越しに身を乗り出すようにして感想を求めてきた。ご主人の様子は気になったけれど、ここは率直な感想を伝えるべきだと思った。
「見た目はとっても美味しそうで、店頭に並べて置いてあったらつい手が伸びそうだなって思います」
ちら、とご主人を見ると、いつも目を合わせてにっこり笑ってくれる彼が俯き気味のままだ。やっぱり、いつもと様子が違う。
「…ただ、お砂糖がちょっと多いかなって。コーヒーとの相性という意味でも、甘さが勝ってしまいそうで…」
話しているうちに段々と自信がなくなって、最後の方はしりすぼみになってしまった。
「…悠ちゃん」と、切り出したのは奥さんの方だった。
奥さんが次に何を言うのか、ドキドキしながら待つ。
「…ありがとう!」
突然奥さんに深々頭を下げられ、私は混乱する。
奥さんはおろおろする私を放っておいて、ほら、だから言ったでしょ、悠ちゃんもそう言うんだから、とご主人に向かってなにやら文句を言っている。ご主人はトレードマークのニット帽を深くかぶって、さらに俯いてしまった。
「ごめんねぇ、悠ちゃん」
奥さんはわけを説明し始める。
「うちの主人ね、ものすごーーーく甘党なの。私がお砂糖入れすぎだって言っても、これくらい甘いのがいいんだって聞かなくて。だから悠ちゃんから甘すぎだって言ってもらえたら、彼も少しは考え直してくれるかなって思ったの。コーヒーの舌は抜群なのにねぇ」
騙すようなことをしてごめんねぇ、と奥さんは小さく手を合わせて謝る。
「もちろん、純粋に商品開発のヒントももらいたかったの。悠ちゃんのことは主人も私も一目置いているし、きっと素敵な感想を聞かせてくれるだろうと思って、ね」
ご主人の様子を伺い見ると、彼も二ッと笑って小さく手を合わせた。よかった、いつものご主人だ。
「お詫びというわけじゃないけど…。良かったら、こっちも食べてみて」
奥さんから別のカヌレを差し出され、私はその場で食べてみる。
「…おいしい」
でしょう? と、奥さんが勝ち誇ったような顔でご主人の方を見た。ご主人はそっぽを向いて作業に戻っていたけれど、そこに流れる雰囲気はいつもの心地よいものだった。
カヌレは外側はしっとりと弾力がある食べ心地で、内側はずっしり濃厚で噛むほどにじゅわりとバターの香りが口腔内に広がる。少しスパイシーな風味もあって、ご主人が淹れるコーヒーによく合いそうだ。
「悠ちゃんって、いつもそこのベンチに座ってゆったりしていってくれるでしょう?」
奥さんは作業の手を止めず話し続ける。
「コーヒーを買うとすぐにスマホを見る人も多い中で、悠ちゃんみたいにコーヒータイムを楽しめる人って、実はそんなにいない。
私たちは悠ちゃんが過ごしているような時間を提供したくてこのスタンドをオープンさせたの。だから悠ちゃんなら良い意見をくれると思った」
奥さんのお店への愛情が詰まった言葉だった。
ただぼんやりベンチに座っているだけなのに、と顔が赤くなるのを感じつつも、そんな風に彼女が思ってくれていたことが嬉しかった。
「季節の味も食べてみたいです。ドライフルーツやナッツを入れてXmas用、ハイカカオを使ってバレンタイン、桜の時期にはお抹茶味なんかもいいかも」
つい、思ったことが口から出る。奥さんは「ほらやっぱり!」と嬉しそうに言いながらメモをとった。
そんな風に喜んでもらえたことが、思いのほか私の心を温かくした。
(この人になら、ここ最近のモヤモヤを打ち明けられるかもしれない…)
唐突に、そう思った。
聞いてもらいたい、でも迷惑にならないだろうか、変に思われないだろうか、と私の心の中はぐるぐると回る。
新しいお客がやってきて、私はスタンドの正面の場所を譲る。奥からご主人が出てきて、お礼にとコーヒーを一杯くれた。
いつものベンチでいつものようにご夫婦を眺めながら、私は心の中で何かが動き出すのを感じていた。