episode.20
希望ある確信
それからの日々は流れるように穏やかに、しかし水面下では変化を促す流れを生み出しながら過ぎ去っていった。
私はその間、自分の人生が確かに新しい局面を迎えていることを感じていた。
期待半分、恐怖半分。
変化への複雑な感情を味わいつつも、その流れは自分自身が生み出してきたものであるという小さな手ごたえが、私に勇気を与えてくれた。
「悠さん、会社辞めたって本当ですか?」
その日、直実さんとご主人と私は南米から一時帰国した飯島くんを囲んで、いつものビストロで食事会を開いていた。
真っ黒に焼けた飯島くんのその発言に、私はむせ返りそうになる。
「辞めてないよ!?」
「だって直実さんが…」
「えぇ?」
直実さんの方を見ると、とぼけたような顔をしてワインを飲んでいる。どうせまた説明不足なメールでも飯島くんに送ったのだろう。
飯島くんはどういうことですかぁ~? と騒いでいる。
「働き方をね、少し変えたの」
「働き方?」
「うん。私はもともとフルタイムだったんだけど…」
「そう! 悠ちゃんは人気沸騰中の予約の取れないデザイナーなのよぉ~!」
話に割り込んだのは直実さんで、あまりに声が大きいので私は恥ずかしくなる。せっかく素敵なペンダントライトで彩られた洒落た空間に来ているのに、これでは台無しだ。
「ちょっと! 直実さん、酔いすぎですよ!」
「どういうことですかぁ! 僕にも分かるように説明してくださいよぉ!」
直実さんのことはご主人に任せて、私は飯島くんにここ数か月での私の変化を説明し始めた。
最初の小さな変化は、boar's coffeeや新店舗の各種デザインを見たお客様から、デザイン依頼が入り始めたことだった。
デザイナーを紹介してほしい、というお客様からの声に、直実さんとご主人は大喜びして私のことを宣伝してくれた。
近隣のカフェ、パティスリー、ブーランジェリー。
紹介が紹介を産んで小さな店舗を中心に少しずつ依頼は増え、最近ではペットショップやクリニックのお話も頂くようになった。
期待にはなるべく答えたいと頑張ったけれど、boar's coffeeやboar's CAFEの仕事も引き続きある中で本業とのバランスが取れなくなったのが、数か月前のことだった。
「そこからどうしたんですか?」
落ち着きを取り戻した飯島くんに、私は続きを促される。
「…すごく、悩んだの」
私はあの葛藤の日々を思い出す。
正直、今だって完全に振り切れているわけじゃない。
「会社には良くしてもらってるし、経済的にも辞めることは考えにくくて…。
だけど、会社じゃなくて私個人に依頼してもらえる仕事があるってことに、すごく可能性を感じたの」
迷った私は、boar's CAFEを訪れた際に直実さんに相談した。
「半分ずつにできないの?」
目にも止まらない速さでクッキーの型抜きをしながら直実さんが言った言葉の意味を、私は最初理解できなかった。
「半分ずつ?」
「うん。要は、会社に出勤する時間を少し減らしてもらって、余った時間で個人の仕事をすればいいんじゃない?」
「なるほど…」
私は考えこんだ。
ずっとフルタイムで働いてきた今の会社。
もちろん給与や待遇は安定している。直実さんが言っていることは、その立場を捨てる、ということに他ならない。
私が迷いに迷って黙り込んでいる間に、直実さんはクッキーをオーブンに突っ込んでカヌレ作りの作業に取り掛かっていた。
「心に聞けばいいのよ」
「こころ?」
「そう、悠ちゃんの心。あなたの心がどうしたがっているか。それが何よりの指針でしょ?」
私はその言葉にハッとした。
指針。
私が何よりも欲しかったのは、これなのではないか。
停滞した人生に危機感を感じて、boar's coffeeのお手伝いに飛び込んで、あれほど "なりたい自分" について考えあぐねて涙した理由。
それはきっと、自分の人生を明るく導く指針を強く求めていたからだ。
自分の意志で、未来を―― "なりたい自分" を――作っていけるという、希望ある確信を得たかったからだ。
「そっか、私の心か…」
私は自分の胸元に手をあてる。
「え、何か言った?」
作業の手を止めない直実さんに私はいいえ、と首を振る。
「ありがとうございます。結論、出そうな気がします」
直実さんはそう、と嬉しそうに微笑んだ。