episode.19
思い出のカヌレ
店名のロゴも決まっていない状態で、まさかオープン日が3週間後に迫っているだなんて思いもよらなかった!
さらりと直実さんから告げられたオープン日に度肝を抜かれた私はもう少し延期できないかと聞いてみたものの、関係各所に宣伝してしまったからもう無理だとにべもなく却下された。
そこから数日でなんとかロゴを決定し、ロゴが決まっていないことで進められなかった作業に着手し(パッケージデザイン、ショップカード、SNS、ホームページと山のように仕事はあった)、ほぼ毎日徹夜状態で走り抜けた3週間後、新店舗・boar's CAFEは無事オープン日を迎えられたのだった。
オープンの日は見事な快晴だった。
直実さんがこの日のために新調したオープンラックに、物販品(焼き菓子やコーヒー豆やコーヒー器具たち)をたっぷり陳列した。南米にいる飯島くんからのエアメールカードも届いていて、陳列作業が終わると直実さんはそれをラックの上段中央に飾った。
開店まであと15分。
直実さんとご主人、新店舗のために採用されたスタッフ数名と私は、店舗の中で円形になって向かいあっていた。
「みんな、ここまで本当にありがとう」
口火を切ったのは、もちろん直実さんだ。
「大変なこともあったけど、私は皆となら必ず素晴らしいオープン日を迎えられると確信していました。
…なんとかなったでしょ?」
そう言って直実さんがいたずらっぽい表情を作ると、スタッフたちの間から苦笑が漏れた。その様子を見て直実さんもふふ、と笑う。
「基本この調子だから、こんな私でも良ければこれからもついてきてちょうだいね」
皆が頷いたのを見て、私は安心する。
はっきり言って、あそこから残り3週間でオープンさせるだなんて無理だと思った。ロゴ以外にも決まっていないことや未着手の作業が山ほどあったのだ。
だけどそれを何とか間に合わせられたのは、直実さんの剛腕によるものだった。
「悠ちゃん」
次に、直実さんは私の方に向き直った。
「色々あったけれど…、本当にありがとう」
私と直実さんは視線を交わし、頷きあった。それ以上の言葉はそこには必要なかった。
「さて!」
直実さんは、ぱん! と大きな音を立てて手を合わせる。
「今日からboar's CAFEは営業スタートです。私たちのサービスの先には、たくさんのお客様の笑顔や幸せがあります。
きっとこれからもトラブルは付き物でしょう。だけど、私たちならそれを乗り越えていけます。
地域で一番の…いえ、日本で一番の、素晴らしいお店を作りましょう!」
おー! と一際大きな声で拳を突き上げたのはまさかのご主人だった。彼に続くように、私たち全員は気合の入った円陣を組んだのだった。
新店舗の経営が軌道に乗った数か月後の良く晴れた土曜日、私はPCを持ってboar's CAFEを訪れた。
「あら、悠ちゃん今日もお仕事? 熱心ね」
笑顔で私を迎えた直実さんは、初めて会った時の直実さんより心なしか堂々としているように見える。
思い立ったら猪突猛進、剛腕で周囲の皆を巻き込んで行く彼女のスタイルは、新店舗がオープンしてからますます顕著になり、直実さんは輝く人となった。
(あれが、直実さんの本来の姿なんだろうな)
客席に座り、カウンターの中でテキパキ働く彼女をぼんやり見ていると、スタッフの1人がコーヒーとカヌレのセットを運んできてくれた。
「このカヌレって、悠さんが直実さんと開発したんですよね?」
スタッフがコーヒーをテーブルに置きながら私に訊ねる。
「そうなの。思い出の商品なの」
「一番の売れ筋だって、直実さんが喜んでました。悠さんはもう店頭には立たないんですか?」
「そうね…」
私は何と答えるべきか思案する。
「私には私の進む道があるから」
これが一番しっくり来る答えだ。
そうですか、残念ですと言い残して去っていくスタッフの背中を見ながら私は思った。
歩むべき道はきっとどんな人の前にも用意されている。だから、私は私だけの道を歩んで行こう。
思い出のカヌレの味は、そんな私を鼓舞してくれるかのように甘くてほろ苦かった。