episode.18
直実の愛
「ご主人から、直実さんの過去の話を伺いました」
そういうと、あら、と直実さんは目を丸くしたが、気を害した様子はなかった。私たちは客席に腰をおろしたまま、話を続けた。
「私、直実さんに憧れてました。
直実さんはいつも真っすぐで、一生懸命で、夢を追っていて…。
理想の”なりたい自分”に一直線に走る姿が、本当に輝いて見えたんです」
私は残り半分ほどになったコーヒーが入ったマグを両手で包み込み、視線を落とした。
「私も直実さんみたいになりたいって、思ったんです。
だからboar's coffeeをお手伝いできて本当に嬉しかった。私も大きな夢を追っているような感覚が新鮮で、人生が変わったような気がしました。
…でも、勘違いでした」
直実さんはじっと私の話を聞いてくれている。
「私はただ単に、直実さんの夢に便乗していただけ。
自分が決めたわけじゃない目的地に向かって走っているうちに、”なりたい自分”どころか自分の存在意義まで見失っていました」
私は話しながら思い起こす。
直実さんにアルバイトを雇いたいと言われた時の胸の疼き。飯島くんと直実さんが意気投合する様子に感じた寂しさ。
私はその先を語る言葉が上手く紡げなくなる。
「憧れって、危険よね」と直実さんが言い、私は顔を上げた。
直実さんの目線は、客席に置かれた観葉植物に注がれている。ご主人が愛情込めて世話をしているらしいそのグリーンは、誇らしげに小さな葉を広げ、窓ガラス越しの日差しを受け止めている。
「危険…?」
「そう、危険。だって、自分にはない要素だから憧れるんでしょ?」
私ははっとして、確かに、と小さく呟いた。
「悠ちゃんと私は根本的に違う人間。だからこそ、悠ちゃんは私を眩しく感じてくれたんだと思う。
そのこと自体は嬉しいけれど、悠ちゃんが私をそのまま真似しようとしても、うまくいかないのは当然よね」
そうだ、その通りだ。
私は今までうまく繋がらなかったピースが全てあるべきところに収まった感覚になった。
「悠ちゃんが見失っていたのは、”なりたい自分”じゃなくて、”本来の自分”だったんだと思うわ。
悠ちゃんが大事にしたいこと、心地よいと感じる環境、一緒にいたいと思う人たち…。
どんな人間も変わっていくし成長していくから、その中で自分のことが分からなくなることは往々にしてよくあることよ」
「…その通りです。自分を見失って、不安になって、だから直実さんの夢に飛びついて…。
結果的に迷惑をかけてしまいました」
頭を下げると、そんなの気にすることじゃないわ、と事もなげに直実さんは言った。
「人生の転換期に悠ちゃんは立っているのね。そういう時に立ち止まらず、迷いつつも自分なりに考えて動けるって素晴らしいことよ。
私だってずーっと長い間自分のことが分からなかった。boar's coffeeをオープンさせて、このお店を作り始めて、それでようやく自分のことが掴めてきた気がするの」
直実さんはそこで言葉を区切り、店内を眺める。
その瞳には、このお店への愛情が溢れんばかりに詰まっていた。
「…だから、」
私は重い口を開く。
今日ここで、私は直実さんにこのことを伝えなければならない。
「boar's coffeeのお手伝いは、もう辞めようと思います。
これ以上ご迷惑をおかけできないですし、もう一度今までの生活に戻って、自分のことを見つめ直したいと思います。
これからは、いち常連客として直実さんの夢を応援したいと思って、」
「あら、それは駄目よ」
「え?」
私が言い終わらないうちに、さらりと直実さんに言われて私の頭の中ははてなマークで埋め尽くされる。
「辞めるなんて、そんなのオーナーである私が許しません。だって、この店はまだ店名のロゴすら決まっていないのよ?」
そう言って直実さんが指さす先にはレジカウンターがあり、コピー用紙に手書きで書かれた店名がセロハンテープで貼り付けられていた。
「いかにもお粗末! お願いできる?」
瞬間、私は自分の目から涙が溢れるのを感じていた。
一番大事な店名のロゴ。そのデザインの仕事を彼女は取っておいてくれたのだ。私が直実さんのもとに戻ることを信じて。
そこに込められた彼女からの愛を感じ取れば取るほど、私は涙を止めることができなかった。
「はい、もちろんです」
なんとかその言葉を絞り出した。直実さんはにこにこしながら私が泣き止むのを待ってくれている。
気が付くと私たちのテーブルの横にご主人が立っていて、そっと2杯目のコーヒーを差し出してくれた。