episode.15
boar's coffeeの由来
道中、飯島くんの話をご主人から聞いた。
彼は今、大学を休学してバックパックで世界中のコーヒーの産地を回っているらしい。最初は南米を中心に旅をして、その後はアフリカに渡るということだ。
そのあまりの行動力と自分の夢への熱量は、私の胸をじりじりと焼いた。
悠さんのこと心配していたよ、というご主人の言葉に、私はうまく答えられなかった。
「少し休憩しよう」
少し歩き、河川敷に出た。
ご主人は川を眺められる位置で立ち止まると、バッグの中から小さなスツールを取り出し、手慣れた様子で組み立てる。
促されてそのスツールに腰掛けると、初夏の日差しに反射する川の水面が目に入り、その眩しさに思わず目を細めた。
「ここ、直実とよく来てたんだよね」
ご主人はそう言いながら今度は水筒と折り畳み式のカップをバッグから取り出し、水筒からコーヒーを注いで私に手渡した。
礼を言ってコーヒーを一口飲むと、それは紛れもなくご主人のコーヒーで、私は少し泣きそうになる。
せっかく忘れかけていたのに、色々なことを思い出してしまう。
初めてboar's coffeeを発見した日のこと。家で夢中でショップカードをデザインした夜。
常連の皆さんは元気だろうか。ホットミルクの男の子は少し大きくなったのかもしれない。
穏やかに流れる川の様子はあまりにも美しかった。
「boarって、どんな意味か知っているかい?」
ふいにご主人にそう聞かれて、私は自分が物思いに沈んでいたことに気づく。
「イノシシ、ですよね」
最初にboar's coffeeのデザインをしてみようと思い立った時、スマホで調べたことを思い出す。
正直、“イノシシ”という単語がboar's coffeeのあたたかみがありつつも洗練された雰囲気と繋がらなくて、なぜこの店名にしたのかと疑問に思った。
いつか直実さんに由来を聞いてみようと思っていたのに、聞きそびれてしまっていた。
「あいつ、イノシシみたいでしょ」
「…え!?」
ご主人が言った意味がすぐに理解できず、私はワンテンポ遅れた反応をしてしまう。
「…もしかして、猪突猛進の”猪”、ですか?」
「そう」
言いながら、ご主人はくっくっくと笑っている。
まさか直実さんを形容した店名だとは思わなかった。
「ご主人が名付けたんですか?」
「直実は不満だったみたいだけどね」
つい、吹き出してしまった。
だって、あまりにも似合うのだ。
直実さんはいつだって、自分の夢と信念に真っすぐに生きている。
この川の水面の輝きのように、彼女はいつだって輝いている。
「直実は、わがままだと思うかい?」
そう聞かれて私はしばらく答えられずにいたものの、ついに首を縦に振った。
「…周りの人のことを、もっとよく考えるべきなのではと思いました」
言いながら、私は自分が言う”周りの人”は私自身のことだと思った。
要は、私はもっと直実さんに私のことを構ってほしかったのだ。一緒に頑張ろう、歩んでいこうと、手を引いてほしかった。
なんてお子様なのだろうと、私は赤くなりそうになる顔を隠すように下を向く。
「まぁ、はっきり言ってわがままだよねぇ」
ご主人は私の心中を知ってか知らずか、まったりコーヒーを飲んでいて、会話が途切れると川が穏やかに流れる音が心地よく耳に届いた。
「boar's coffeeはね、」
ご主人がそう切り出し、私は顔を上げた。
「あいつが自分のわがままを貫き通すために作った場所なんだよ」
私はその言葉の意味を長い時間をかけて咀嚼する。
「夢を叶えるとか、なりたい自分になるとか、そのための場所という意味ですか?」
「それもあるけど、それだけじゃない」
「じゃあ…?」
「端的に言えば、直実が直実らしく生きていくため、かな」
「生きていくため…?」
「そう、生きていくため」
生活のためのお金を稼ぐという意味かと思ったけれど、それだけでは決してないはずだと思い直す。
その時の私は、ご主人のその言葉の意味が分からなかった。
だけど、その後彼が語ってくれた直実さんのもうひとつの過去を知り、この川の流れを眺めながら生きていくことに苦悩した彼女を思うと、涙が溢れて止まらなかった。
そして私は、もう一度彼女に会おう、会って話をして謝って、新たな関係性を彼女と作ろうと、そう思ったのだった。