Unlimit special story

"なりたい自分"の見つけ方

episode.1

私だけの丁寧な暮らし

#丁寧な暮らし。

そのタグがついた投稿がタイムラインに流れ込んできて、私は思わず目をそらす。

少し前にそんな暮らしへの憧れからお洒落なアカウントをフォローしたけれど、実際に「#丁寧な暮らし」を実践するには時間もお金も無限に必要で、とてもじゃないけれど今の私には無理だと悟った。

――そんなの、ファッションじゃん。

内心毒付いて、スマホを閉じる。

特に用のない休日は、溜まり切ったゴミを片付けることからスタートする。ここ最近忙しくて、食事がお弁当ばかりだったから、プラスチック容器でゴミ箱はパンパンだ。

「#丁寧な暮らし」には程遠い現実を、私は黙々と処理していく。

さっさとゴミ捨て場に持って行ってしまおうと部屋着で外に出ると、思いのほか寒くて部屋着の上にコートを羽織る。

さて、今日は何をしようか。

膨らんだ袋を捨てると、いくぶん身軽になった気がした。

ゴミ捨て場の前でいつまでも立ち尽くしているわけにはいかないし、本当は洗濯も掃除もしなければならない。「#丁寧な暮らし」を目指すならここで作り置きおかずのひとつでも作るのだろうけれど、そんな気にはなれない。

とりあえずコンビニでコーヒーとパンでも買おうと、コートのポケットにスマホが入っていることを確認する。

コンビニに向かう道すがら、何やら行列を発見した。

普段通勤で歩いている道なのに、その人だかりの向こうに何があったのか思い出せない。行列の先頭でお目当てのものをゲットした人の手元を見ると、どうやら新しいコーヒースタンドができたようだ。

手先を温めながらコーヒーやラテを飲む人たちが無性に羨ましく感じて、吸い寄せられるようにその列に並んだ。

どうやらそのスタンドは本格的に一杯一杯ハンドドリップで淹れるスタイルのようで、なかなか私の番はまわってこなかった。

普段ならイライラしてしまいそうな待ち時間。だけどそうならなかったのは、スタンドで働くご夫婦の雰囲気があまりにも素敵だったからだ。

ご主人がにこやかに、だけど真剣に淹れるコーヒー。

接客を担当する奥さんは、お客の好みに合わせて豆を選ぶ。

一杯ずつ、丁寧にお淹れします。

立て看板に書かれたその言葉が、妙に心に残る。

「丁寧」って、何だろう。

購入したコーヒーを手にスタンドの前にあったベンチに座って、働くご夫婦の様子を眺める。

あの2人は、何も意識しなくとも丁寧にコーヒーを淹れて、接客をしている感じがする。肩の力が抜けているし、何といっても幸せそう。

きっと2人にとって「丁寧」は目的じゃなくて、その先にあるもの――例えば、お客さんの幸せそうな様子だとか、大好きなコーヒーに囲まれて働けることそのものだとか――が、素敵な雰囲気を作り出してるんだと思った。

――ファッションなのは、私だったな。

中身のない「丁寧」を追い求めていた自分に気づき、私はコーヒースタンドを後にした。

午前中いっぱいかけて部屋を整えてから、しまい込んでいたコーヒー器具を久しぶりに取り出した。豆がちょうど一杯分残っていたから、ミルで挽いて、ご主人の手つきを思い出しながらハンドドリップで淹れてみる。

きれいになった静かな部屋でコーヒーを飲むと、久々に自分の時間が戻ってきた感覚があった。

私が欲しかったのは、この時間そのものだったんだなぁ。

丁寧にしよう、しなきゃ、その先に何かあるはず…と、空回っていた自分は、清らかになった部屋の空気にいつの間にか溶けていった。

次の休日には、あのスタンドにコーヒー豆を買いに行こう。

美味しい豆を教えてもらって、家でゆっくり淹れて。

しばらく忙しい日々は続くから、自炊も大してできないし、またゴミ捨てから始まる休日かもしれないけれど、私は全然かまわない。

それはきっと、誰にも知られることのないどこにも発信されない、私だけの丁寧な暮らし。

Story's item

整えた部屋でコーヒーを楽しむマグカップ

KIKI MUG C811

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