戦国
(甲冑講座 特別編)

■戦国時代
一般に戦国時代とは応仁の乱から1467-1573信長が将軍、足利義昭を追放するまでの100年の内 乱(戦)を指すが、ここでは、それ以降も含めた、16世紀の甲冑を中心とした武具の変化にスポットを当 てる。

■戦国時代の甲冑の変化

戦国時代の甲冑の変貌の1番の理由は【鉄砲の伝来その普 及】が上がる事は甲冑が防具である事から明かと言えるが、戦国初期から中期までは、まだ、鉄砲も普及されず、戦いも【下 克上】に見られる、一族の間での覇権争や、国衆などの郡、守護が納めていた国の中の争いであった、 この頃の戦国大名の所用する、甲冑の多くも、それまでの守護大名が所用していた、格式を持った【胴丸/腹巻】がまだ多く見られる。

戦国時代後期まで生き(勝ち)残った、戦国大名達は、他を吸収し、より強大な力を持ち、他国への軍の移動、連合での戦い、そして鉄砲量産化にともない、多 数の兵力に短期間で供給する為の量産化などの要素を持った【当世具足】が甲冑の中心となる、 又、中世から近世の幕開への、古い伝統を打ち破ると言った戦国大名達の心理的な面も、当世具足の変貌の忘れてはならない要素である。

■戦国時代の初期〜中期の甲冑

1世紀にもの渡る戦国時代の初め〜中期までは、北条早雲や斉藤道三に代表される【下克上】から【国衆】や【守護大 名】の覇権を争った戦いと言え、【下克上】【群雄割拠】の戦国大名(元来からの守護職を含む)の甲冑も、鎌倉からの 【大鎧】の流れをくんだ守護大名の威厳と格式を持つ【胴丸】【腹巻】が、まだ多く見られる。

戦国大名のまとった甲冑
戦国初期〜中期 本小札 胴丸/腹巻

■島津貴久   ■毛利元就   ■大友宗麟   ■上杉謙信   ■織田信長
1514-1571   1523-1563    1530-1587   1530-1578   1534-1587      


■島津貴久胴丸鎧写し ■毛利元就腹巻鎧写し  ■大友宗麟腹巻鎧写し ■上杉謙信腹巻鎧写し ■織田信長胴丸鎧写し

胴丸/腹巻に関し ては、甲冑講座 胴丸/腹巻編 参照

島津貴久 毛利元就の甲冑は守護大名が受け継ぐ正当な甲冑の流れをくんでおり、そのスタイリングはほぼ一定されてい た。*大友宗麟の甲冑は後期のモノと思われるが、ご覧の様に【織田信長 所用伝】(前期のモノと思われる)の甲冑でさえ 鍬型を取り付けたオーソドックスな甲冑である。
■ 下克上 群雄割拠の戦国大名たち

島津貴久1514-1571
守護大名 相州島津家の衰退により、伊作島津家の忠良(日新)の子嫡男が養子として迎えられた、以降、島津、相州家、伊作家が協力して、薩摩/大隈/日向 を統一し戦国大名島津氏が誕生する。貴久の子、島津4兄弟は九州統一を目前にして、中央の戦国覇者、秀吉の大連合の 前に破れる。

■毛利元就1523-1563
安芸の国人領主・ 毛利弘元の次男から、最初は初期の戦国大名 尼子氏、守護大名 大内氏など に属しながら力を貯え、やがて尼子、大内を破り、中国地方一体を統一する大戦国大名となる、3本の矢で知られる、その子供達、毛利隆元 吉川元春 小早川 隆景による3連合体制で完全に中国地方を掌握した。(上杉謙信 本願寺と同盟を結び信長を牽制した)

■大友宗麟1530-1587
島津同様、鎌倉よりの守護大名からの名門、他家同様「大友二階崩れ」と言う一族の内紛を乗り切り、宗麟の最盛期には豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前、 日向、伊予半国を領し、島津との戦いに敗れるまで、九州最大の戦国大名として君臨していた。
(毛利元就とも北九州をかけて争った)

■上杉謙信1530-1578
越後守護代、長尾 為景の末弟として生まれ、兄、晴景の一派との争を制し、越後守護代 長尾家の家督を継承した後、上杉家の要請を 受け上杉氏の家督と関東管領職を相続した。武田/北条と共に関東を代表する戦国大名で、1575年には手取川の 合戦で織田軍からも大勝をおさめる。

織田信長1534-1587
尾張国の守護代の家老 織田信秀の子から家督争いの後、桶狭間で今川義元を破ると、急速に力を伸ばし、近隣の戦国大名や一向衆などとも戦いながら、いち早 く天下布武を目指す。


■ 鉄砲の伝来 種子島(鉄砲)の発展 と甲冑(当世具足)の発展

1543年種子島の領主 種子島時尭はポルトガル人から1挺につき金1千両を投じ射撃の訓練/火薬の扱いも含み2挺購入 されたと言われ、時尭の射撃の腕は百発百中と伝わる、その一方で、直ぐに刀工に命じ模倣製作を行わせ、1年足らずで10 挺を試作する。伝来した鉄砲は薩摩/大隈の戦国大名、島津貴久に贈られ、島津家はそれを室町将軍足利家に贈ったという。 又同時に【根来衆】の手にも渡ったと言われ、6年後の1549年に織田信長が500挺の種子島(鉄砲)を注文した資料が あると言う事からも、驚くべき日本の鉄砲の普及率と、現在でも世界1と言われ、高い評価を受けている【日本刀】の刀工や 甲冑師達を含む、日本の元来の鉄加工技術の高さが伺える。

*1575有名な長篠合戦で信長鉄砲隊は 3000と言われる。

*1584沖田畷の戦いで竜造寺軍25000の ウチ約7000名ー8000名が鉄砲隊であったと言われる。(ルイス・フロイス)

*又朝鮮の役で島津義弘率いる2500前後の兵 のウチ1000名前後が鉄砲隊であるのに対して同数の立花宗茂率いる軍には、わずか350名の鉄砲隊しかおら ず、槍隊が主力だったと言う説もあり当時の装備は、各大名により大きな差があったようだが、

1569にイギリスがフランスに3600の軍を 派遣したさい、あまりの鉄砲の装備の少なさにロンドンの武器倉庫ら300の鉄砲を追加しても、1000に足りな かった事から、当時の鉄砲を保有した上位の戦国大名達の鉄砲の保有率/保有数はヨーロッパ1国の鉄砲の保有率/ 保有数を上回ったとも言われ、種子島(鉄砲)はヨーロッパ以外で唯一、量産化に成功し、世界的に類を見ないス ピードで日本全土に普及した。

■鉄砲の実用と当世具足の普及

合戦で実用された初期の種子島(鉄砲)は、下記の映像のような、隊の先導、敵の隊を乱す為、最も活躍した、【騎馬 隊(馬)】の【威嚇】が大きな目的だった様だが、やがて、量産や射撃の技術が発達し鉄砲が攻撃の要となると、まだ、 名乗を上げて一騎討を行うと言うしきたりも平行して残っいた武士達は足軽から鉄砲で討たれる事を最も嫌がり、鋼鉄の 板を中心としたより堅牢な防御を備える甲冑【当世具足】をまとうようになる。

上記の要因と同時に、力を持った戦国大名達は、更なる領地拡大を求め、遠方への長期遠征などで迅速な軍の移動などが勝敗を大きく左右するようになり、そ の、戦の変貌などからも、歩行戦/海戦/海からの上陸戦などでの機動性を重視した作りの【当世具足】が多く見ら れだす、名のある武将の中には、合戦の用途に合わせ、所用する数領の【当世具足】のなから一番用途に適した甲冑 を選び、合戦に向かう例なども見うけられ、戦いが、より近代戦に近づく事により、武士達の戦や【甲冑】に対す る、価値観も、大きく変化していった時代である。又この頃になると武士以外の、商業/工業等に携わる者達も、財 力や技術力で千利休や雑賀衆/根来衆のような、戦国大名に等しい力を持つ者達も現れだす。100年の戦乱は武士 に限らず、農民/商人/職人/寺院なども又生きる為に、戦わざるを得なかった、この事が更に、鉄砲や甲冑の発達 に結ばれて行く。


■ 当世具足の種類

当世具足の詳しい説明に関しては、甲冑講座 当世具足編 参照

■主だった光忍甲冑の当世具足を更に大きな種類別に分類する。

戦国武将/大名のまとった甲冑
当世具足全盛期(戦国中〜後期 安土/桃山 江戸初期)


■当世小札二枚胴 伊予札二枚胴 段替二枚胴

*当世小札....大鎧/胴丸/腹巻等に使われた本小札を意識しながらも、鉄板を本小札のように見せる作りで鉄砲の備えと量産性を考慮している。

*伊予札......本小札同様、鎌倉期から見 られる札の種類であるが、当世具足によういられる伊予札の作りは当世小札同様、鉄板を使用したものが大半を占め ている。

*段替胴......本小札 当世小札 伊予札(素懸/毛引)などの混合

■当世小札二枚胴具足             ■伊予札二枚胴具足                    ■段替胴具足 

秀吉馬簾兜 古代蓬糸威 徳川家 康        前田利家   織田信長     紺糸縫延  黒 糸威腰取時代
        
 小札二枚胴                                       二枚胴具足