2014 今年は甲冑展やら鉄砲隊の演舞やらあって鹿児島、伊集院間歩けませんでしたが
来年は又鹿児島伊集院間甲冑着て歩きたいと思ってます。





写真2011 旧薩摩街にて




牧 田川添(ぞ)ひ ひと筋に

行く行く敵を けちらして

駒野(こまの)峠の 夜にまぎれ

伊勢路さしてぞ おち給ふ(たもう)



無心の蔓草 (つるくさ) 今もなほ勇士

の血潮に 茂るらん

仰げば月色(げっ しょく) 

縹渺(ひょう びょう)と

う たた 往時(おうじ)の な つかしや


■妙円寺詣り
 
 関ヶ原で敵中突破を成した島津義弘公
 と関ヶ原に向かった薩摩隼人を偲び
 江戸幕府の目を忍ぶ形で
 
旧暦の関ヶ原合戦  前日、夜中
 
厳かに、粛々と薩摩全土より
 義弘公の 菩 提寺である、 妙円寺に詣った

(幕末〜明治維新以降 廃仏希釈により徳重神社に詣で、妙円寺復興後の現在も殆どの人間が徳重神社に詣る *妙円寺と徳重神社は別の場所です。)
*誤解の無い様に追記しておきます。

 のが、その起源であり、 明治維新後 
 公に行われるようになった。
 
 同時に関ヶ原に向かい敵中突破を、
 なした、義弘公 薩摩隼人の強靭 
 な精神と肉体を称え 山坂を歩き
 足腰を鍛える 郷中教育 
 【山坂達者】を 伝え残す

  
   【鹿児島三大行事】の
     一つとしても名高い、


  伝統行事である。
 
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  関が原の合戦がすぐわかる      妙円寺詣りの歌

1明くれど閉ざす 雲暗  く
薄(すすき)かるかや そよがせて
嵐はさっと 吹き渡り
万馬(ばんば)いななく 声高し

銃雷(つついかずち)ととどろけば
太刀稲妻と きらめきつ
天下分けの たたかひは
今や開けぬ 関ヶ原

石田しきりに 促せど更に動かぬ 
島津勢 占むる小池の 陣営に
鉄甲堅く よろうなり

名だたる敵の 井伊本多
霧にまぎれて 寄せ来るや
我が昌巌(しょうがん)ら 
待ち伏せて 縦横無尽に 
かけ散らす

薬丸自顕流 総師範と南州神社にて



  20Kmの道中 写真左の鹿児島学舎連合でもあり、鹿児島の歴史の
  語り部でもある先輩に、色々な話を聞きながら歩き、
  ここぞとばかり、その由来を聞いてみたところ、納得の行く答えを
  教えてくれましたので、この場に、そのまま記載しておきます。

  『チェスト〜』の由来
 
  
薩摩 大隈では島 津家 にのみ伝わった剣術【陰之流】の
  奇先(かけ声)が『チェ〜』と発生され、島津の殿様は
  将卒らに、
『チェ 〜っと行かんか!!』と檄を飛ばして
  いたとされ、これが
 『チェスト〜行け!!』
  
に変化したと考えられる、 恐らくそう言う事だろう
  と 教えてくれました。 

  納得。そして

  薩摩では、島津家のみ許された
【陰之流】の  奇先『チェ〜』
  を使う事を許された証とも取れる『チェ 〜っと行かんか!!』 
  
の檄は、薩摩隼人にとって非常に名誉ある言葉だったのだろうと
  と思う 山坂の道

■丁度中間地点 チェスト館にて ソバをすする。
  

家康いたく あらだちて
自ら雌雄を 決せんと
関東勢を 打ちこぞり
雲霞(うんか)の如く 攻めかかる


かかれ進めと 維新公(いしんこう)
耳をつんざく 雄叫び(おたけび)に
勇む隼人の
 切先(きっさき)の水もたまらぬ 
鋭さよ
十一
払えば又も よせ来たり
寄すれば又も 切りまくり
剛は鬼神(きじん)も 挫けども
我の寡勢(かぜい)を 如何にせん
十二
運命何れ 生か死か
ここを先途と 鞭ふるひ
奮迅敵の 中堅に
活路を求めて かけ込ます

           ■ようやく徳重神社(妙円寺)に無事到着
             義弘公と薩摩武士達に思いをはせ詣る。


十七
賜いし御旗 ふりかざし
阿多長寿院(あたちょうじゅいん) 
駆け入りて
兵庫入道 最後ぞと
名乗る雄々しき 老(おい)の果(はて)
十八
欺かれたる 悔しさに
息もつかず 忠吉(ただよし)ら
くつわ並べて 追ひ来しが
(おいきしが)
返す我が余威(よい) 
また猛し(たけし)
十九
牧田川添(ぞ)ひ ひと筋に
行く行く敵を けちらして
駒野(こまの)峠の 夜(よ)にまぎれ
伊勢路さしてぞ おち給ふ(たもう)
二十
献策遂(けんさくつい)に 
容れられず
六十余年の 生涯に
始めて不覚を とらしたる公(こう)の無念や
 嗚呼如何(ああいか)に
   妙園寺詣り考察 2006 その3
  
  西郷ドンも所属していた二松学舎、今回 総代学舎辞退の危機に
     おちいり、他の学舎の方 西郷ドンのひ孫の方が尽力され、
     立派に総代学舎を勤められました、真ン中の学舎の代表の方の、
     感極まる挨拶には深く思うものありました。

  私の母校(高校)にも
30km の山坂を歩く【強歩 大会】と行事が
  ありましたし 長男、次男の小学校の卒業記念の行事は、夜間(明け方)
  親子で山坂を歩くと言う物でした。 娘の卒業記念にはこう言うの
  無かったけど、間違いなく、この鹿児島には

  妙円寺詣り【山坂達者】の教えは今も残っています。
  
鹿児島県の三大 行事として 
  
  何時までも、この教えを、伝え残す為にも
  歩けるまでは甲冑着用で、歩いて詣りに行こう。


水上坂を登り、ホット一息 

水上坂手前で 3人でこの妙円寺詣り の歌を歩いていると
一人加わり二人加わり何時の 間にか大合唱
若い女性が良く歌えるなと振 り返るとシッカリ振り仮名 付きの
カンペ持ってました。 しか し、水上坂になるとこの  歌が一人減り
二人減り 最後は見知らぬオジちゃんと3人で競い合うように
歌ってました。(笑)

水上坂で何人たりとも抜かれる訳にはいかん!!


東軍威望(いぼう)の 恃みあり
西軍恩義に よりて立つ
二十万余の 総勢の
勝敗何れに(いずれに) 決せんや


戦ひ今や たけなはの折りしも醜(しこ)の 小早川(こはやがわ)
松尾山をかけくだり刃(やいば)
返すぞ 恨めしき


前に後に 支へかね
大勢すでに 崩るれど
精鋭一千 われひとり
猛虎負嵎(もうこふぐう)の 
威を振ふ(ふるふ)

  蹶(け)立てて 駒の行(ゆ)
くところ踏みしだかれぬ 草もなく
西軍ために きほひ来てなびくや敵の 旗の色
          
既に足痛 現代の薩摩武士(笑)



■妙園寺詣り考察 2006  その1
 
  
今まで殆ど 足のマメは気になった記憶はないのだが、今年は
   草鞋が足にあわず、10km手前でかなりのマメ
   草鞋も各職人によって微妙に異なるので次回は、予備も含め
   しっかり自分の足にフイットするものを持って行こう。

   今回 自顕流の総師範が裸足を重んじられている
       事がよくわかりました。

   又 上杉謙信公の 鎧は胸にあり 手柄は足にあり 

   特に手柄は足の裏に一杯あった っつー気がします。

   その後、先輩が靴ずれ用のバンドエイドくれて貼ったんですが
   歩き終わって、帰路 温泉ではがそうとするのだか、

    マメの皮ごと剥げてきて、中々思うように剥がれない、
    気合を入れて思い切り剥がすと、バンドエイド部分の皮膚が
    殆ど(しかも深く)はがれてしまい、マメの比じゃないくらい
    痛  い。。。。。。

    明日の本祭がちょっと不安。。。。。。。。

    靴ずれ用バンドエイドはマメが出来る前に貼るもの。

■伊集院到着 関ヶ原合戦屏風    伊集院には烏帽子 陣羽織の
                        子供達がイッパイ  
十三
譜代恩顧(ふだいおんこ)の 将卒ら
国家(くに)の存亡 この時と
鎬(しのぎ)をけづる 鬨(とき)の声
天にとどろき 地にふるふ
十四
篠(しの)を 束(つか)ねて 
降る雨に横たふ屍(かばね) 
湧く血 風なまぐさく 吹き巻きて
修羅の巷の それなれや
十五
薙(な)げど仆(たお)せど 敵兵の
重なり来(きた)る 烏頭坂
(うとうざか) たばしる矢玉 音凄く
危機は刻々 迫るなり
一六
骸(むくろ)も染みて 
猩々緋(しょうじょうひ)
御楯(みたて)となりし 
豊久(とよひさ)を
見るや敵兵 且(か)つ勇み
群り寄する 足速し

妙園寺詣り考察 2006 その2
  
  かなり時代好きで、徳川家康の
  大黒頭巾羊歯具足も知ってる少年から
  
  『
甲冑は良いけ ど、巾着袋からはみ出した
  ペットボトルの先がチョッとねぇ〜

  
  ってダメ出し出されてしまった。。。。。。。。。。

  少年達の夢を壊さん為にも、やるからには徹底して又竹の水筒に
  せんとイカな。

■翌 本祭 2006鹿児島学舎連合 総代学舎 二松学舎
  総大将は西郷さんのひ孫にあたる西郷隆文さん 南州神社にて 
  


二 十一

興亡すべて  夢なれど 敵に背(そび ら)を 見せざりし

壮烈無比(そ うれつむひ)の 薩摩武士

誉 (ほまれ) は永久(とわ) に 匂ふなり

二十二

無心の蔓草 (つるくさ) 今もなほ勇士の血潮に 茂るらん

仰げば月色(げっ しょく) 縹渺(ひょう びょう)と

う たた 往時(おうじ)の な つかしや


sai西郷ドン銅と 2008?

                                          徳重神社境内(妙円寺)にて→


2012 鹿児島 伊集院 往復約50kmの甲冑歩行記

 
12.12.27  妙円寺詣(思いつきを添付一部変更)



今年は10月27日の朝6時に薩摩川内を(車)出発、8時には南州神社に詣り、
甲冑の準備を行い着付けのお手伝い自分も小具足着用
照国神社参拝後 再度 南州神社より伊集院へ移動(車です) 鹿児島学舎連合として
再び甲冑の着付けのお手伝い+自分自身も甲冑を着用して、
徳重神社へしっかり参拝を行った後片付けを終え、

再度一端、鹿児島まで戻り、晩飯をたらふく食べて、
たまたまサービスで提供されていた握り飯を各1つづつ握りしめ、

27日22時過ぎ(頃だったと思います)甲冑を再度着用し夜通し鹿児島 
伊集院間 約25kmを粛々と往復してみた、
行きは例年、歩いているので、揚々と歩いたが、

偶然、丑三つ時(28日ジャスト2:30頃)旧薩摩街道に入ると急に月明かりが消え、道が真っ暗になり、
足元がまるで見えず、足で探りながらする進む夜間の甲冑での歩行は、
平坦な道を歩く倍ほど体力が消耗された、

当時の獣道を進んだ薩摩武士達がどれほど体力と気力を消耗させていたか
(昔の人は当たり前なのかも知れないが)
ハッキリと体感出来た、

伊集院に到着する頃には豪雨となり

正に

篠をつかねて降る雨状態で、甲冑を着用とは言え雨晒の体は更に体力と気力が消耗される、

薩摩武士の気持ちを感じられるかともおもったが、

実際、事前に 船や相当数の馬を乗りつぶした、地頭衆の一部を覗いて
薩摩から敵国ばかりの九州の獣道を抜け関ヶ原まで駆け、伏見城で戦い
(急遽西軍として戦う訳なのでそれは、奮闘しないと逆に西軍から討たれたはず)

墨俣での臨戦態勢から退却

雨の大垣城からの関ヶ原への夜間移動、

そして天下分け目の関ヶ原と

今回甲冑着て50Km歩いて確信したのは

薩摩から合戦直前まで駆け付けていたとされる、


島 津勢は関ヶ 原で動かなかったのでは無く動けなかった!!んだと


その後、決死の敵中突破での

座禅陣、
捨て奸(すてがまり)
動けない薩摩武士達の必然の決断なの だろう、


かながら、残った薩摩武士達の牧田川、伊勢路の退路も、
敵や、落ち武者狩りの手等の更なる危険と隣合わせ、その緊張感は
こんなものでは無かったのだろう。
そんな思いにふけ りながら、ひたすら歩き、

徳重神社に到着。参拝 した後約20分の 休憩をはさんだのが不味かったのか?

復路はどうにもこうにも、

足裏、足首、ふくらはぎ、膝、股関節、の痛みから、
だんだん感覚も無くなるような感じで、とにかく足が動かない、進まない。

アスファルトに地下足袋での25km以上の甲冑での歩行はこれ程足にこたえるとは思わなかったが、

それでもわずか約50km関ヶ原まで向かった薩摩武士達には到底及ばず、

今、敵が来たら、自分も捨てがまりに志願して、座禅陣を組むしか方法が無いなと感じた、

ゴールについても、達成感より、情けない感情の方が強く、今回歩くことにより、
薩摩より関ヶ原に走った薩摩武士達に少しでも近づくつもりでいたが、

むしろ逆に遠ざかったように感じている。。。。。。。。。。。。。。

遠ざかりはしたが、

関ヶ原へ向かった薩摩武士達への敬意は更に増したように感じます。

翌日の朝のウォークリーで出発した皆さんとすれ違いざま、殆どの方が挨拶して下さったので、
最初は皆さんに会釈と挨拶をしていたのだが、兜を被っていたので、最後は首が動かなくなったので、
無視してすいません。^^

行きは4時間程度で徳重神社まで到着したが
帰りは倍の8時間もかかってしまい、鹿児島に到着したのは翌28日 10:30頃?(だったと思う)

結局約50Kmを12時間以上かかりどうにかこうにか完歩しましたが、

情けなくも甲冑を着て50Km歩いた事、12時間以上甲冑を着た事は良い経験になりました。


歩き終 わって、もう 一人の仲間と共に、薩摩武士が労をいやしたとされる
市来の歴史ある温泉
(150円)に入り


解散 お疲れ様でした。


一緒に歩いた、もう一人は、香港から妙円寺詣りの為に有給使って帰鹿、
同日、直ぐに子供の七五三を終えて又直ぐに香港帰ると言う。(中々の変態薩摩兵児)

自分は、自宅に帰って市長市議選に行って、休む間もなく、
地元の仲間達とバーベキュー&はんや祭、秀吉20万VS平佐城400の

殺陣の練習。

迎えに来た後輩達は、歩き終わった直後の自分を病人の様だったと語る..........

色々アドバイスしようにも、立ち上がれないと思っていたが、

後輩たちが焼いてくれたA5の肉と焼酎が良い具合に痛みを麻痺させてくれて

結構な時間、段取り稽古と殺陣の稽古。ようやく終了

一応はこれを業務の一部としておこう?(汗)

只々粛々とひたすら歩いて翌日は普通に業務をこなす。

その後、更に、焼酎を更に煽り、6時位には酒宴の隣の部屋に布団引いてとっとと雑魚寝。

とても当時の薩摩武士には近づけませんでしたが、

少しだけ、本物の妙円寺詣りに近づけたと思ってす。

                

 2010 豪雨の後の徳重神社




                   2002位 ?                         2007