蓋付中椀・奥田志郎|夢の花の家の器たち

夢の「花の家」の器たち

 C.W.ニコルと云う名前を御存知の方は多いと思います。彼は冒険家で文筆家、この美しい地球を次代にと熱く思っている方です。長野県黒姫山の麓に彼が命がけで守っているアファンの森があります。

 その森に訪れる人たちのためのすこやかな宿を作ろうと、彼が私の弟 中原英治に託して下さったのはもう十数年も前のことでした。さまざまな準備をし、解体した古い民家も見つけ、これから建築が始まろうとする直前、弟 中原英治 は病を得、帰らぬ人となってしまひました。

 親友を思っていて下さったニコルさんの哀しみは一通りではなく「共に老いを過す夢がなくなってしまった」と云われ10キロもお痩せになってしまわれたほどでした。

 弟は「竜の子」と云うペンションを二十余年しておりましたが、ニコルさんと御一緒に理想の宿をつくるのが最終目標、夢でしたので、長い年月をかけてようびでさまざまなものを見つけては買っておりました。

 それが今、ここにお見せしているものたちなのです。

 弟の夢だった宿の名は「花の家」 春は片栗の花、すみれ、二輪草を始め、こぶしが咲き紅しだれが美しい姿でゆれる、夏草の匂ひ、秋草の風情、折々の弟の好きな花に埋もれるようにその宿は建つはずでした。それなのにそれなのにと想ひはつきないのですが、このものたちを粗末にするわけにゆかず、大切にしていただける方にご使用いただくのが一番なのだと思うに至りました。

 夢の「花の家」の器たちです。

工芸店ようび 店主 真木
漆器・4.3寸黒椀・奥田志郎

第一章 - 粋な酒宴の始まる予感。

 この黒の4.3寸の椀と黒布盆は、花の家の夕食のスターターとして早くから弟 中原英治が好んで取り置いたもので、彼が一番自分らしいやり方だと考えていたものです。

 まだ煮上りたての「ムラシ」をしていない御飯(茶懐石の一文字御飯です)を少し盛り、新鮮な肴を少し食べる。しっかりと季節を盛り込んで、粋な酒宴の始まる予感。

 こんなことあんなことと、C.W.ニコルさんとまるで少年のように、この「ザ・お宿」の夢を語っていたのを聞いていました。

 シンプルにインテリゼンスと夢をもって窮極の宿と云うものを考え実現しようとしていたのです。

 潰えてしまった夢は儚いが故にこの上なく美しいものとして私の心の中にあります。

 人をよろこばせることが何より好きな人でした。共にそんなことをよろこんでくださるお客様をまるで自宅に招かれたようにもてなしたい。いつも大勢のお客様だった家で育ち、母が懸命に皆によろこんで貰えるもてなしをしていた姿を見ていたせいかもしれません。

 宿として必要なものをしっかり見極め、そして不要なことは切りすてて、さあ気持のよいもてなしの始まり始まり・・・そんなお膳なのです。

漆器・4.3寸朱椀・奥田志郎
蓋付中椀・奥田志郎

伊羅保:伊羅保割山椒・長森慶

蓋付中椀・奥田志郎

第二章 - 秋深き日の一献

 秋が深くなると黒姫では夕刻霧が下りて来て、おそばの畠は真っ白い世界にとざされます。美しさにしばし茫然としていると、いつの間にか冷気が沁みてくる、そんな季節です。

 弟 中原英治は大阪で生まれ育った人ですので、そんな情景は、ことの外鮮烈に感じたのでしょう。毎年「おそばの花が咲いてるよ」と知らせて来てくれました。

 きっとそんな季節に使うつもりだったと思われるものがこの一組です。山椒の実のはじけた形の割山椒。これは伊羅保で造ってあり、より強く秋を感じさせるものです。

 丸盆も潤色を選んでありました。こうして並べてみると、男性的でしかも少し愛らしさのあるものを好んでいたのだと解ります。

 洗朱無地の椀も大好きでした。雑きのこのお汁など入れようと思ったのかなと想像が広がってゆきます。お酒は、断然ぬる燗です。

鳴海織部角鉢・藤井敬之

第三章 - いろりに火が入る頃

 写真(上)の角皿は、弟 中原英治が好きで長く使っていたもの(非売品)です。

 骨付きのうづらの山椒焼をたっぷり盛ってあったのを思い出しますが、私には考え及ばない器の使い方をする人でしたので、花の家でならどの様に使うか想像するのは無意味かもしれません。でもでも、向付なら細造りかよこわのコロコロ切、マグロのヅケなどと、ついつい考えてしまいます。

 外は雪、もういろりに火が入って炭が明るく燃えていることでしょう。たっぷりと暖かいお汁も用意されていることでしょう。

第四章 - 空想の「花の家」のお正月

 十五年ほど前から、お正月二日はC.W.ニコルさんをお招きして茶会をする習わしでした。弟が病を得るまで、ニコルさんがお正月黒姫の自宅にいらっしゃる限り続きました。弟と私の山荘がニコルさんのお住居の隣にあり、彼は袴をつけて来て下さいます。ちょっと緊張した茶席、雪が静けさをより深くし、松風の音もしきり、よい茶会でした。

  つづいて午餐はワインをたのしみます。外は雪、まっ白、サロンの暖炉に火は燃え、緊張感の解けた心地良さを今もこの膚が覚えています。弟は満足げに大好きなケアホルムの椅子に座ってさかんにワインをかたむけていました。

  「花の家」が出来たらどんなお正月をしたのでしょうか。

  この三つ椀に盛るとすれば、大椀には雑煮、中椀にはごまめ、くろまめ、かずのこ、向には唐墨、水々しい大根一切。少し緊張して屠蘇一献。そして後は、大徳利のゆったりしたぬる燗。冷たい鯨の刺身、かな。

第五章 - 花の家の如月

 如月は大阪では早何やら春を感じさせる陽光ですが、信州ではまだまだ雪の中、お客様も静かでおちついた雰囲気がかもされたことでしょう。

 外は雪。燃える囲炉裏。でも関西育ちの中原英治の心の中には梅の香が匂っていることでしょう。

 こうして想像の世界でしかたのしめない夢の花の家。悲しみはつのりますけれど、それだけいつまでもこうであったらという儚いけれど美しい夢は広がっていきます。そうすることで彼が実現させることの出来なかった夢を少しでも叶えて上げられるそんな気がします。

 そんな男っぽいけれどはんなりとした組み合わせ、土物を基調に長手の脇取盆、鴬宿梅の椀、乾山写し桐紋の土器皿、黒釉の盃。川淵さんのこの土味はきっと大好きと云ってくれるでしょう。そして鯛のうすづくりなど盛るかもしれません。

漆器・鶯宿梅蒔絵糸目椀・尚古堂・竹田省

第六章 - 花の家の春

 黒姫の春は遅く、今年など5月の連休の終わる頃に山桜、梅、しだれ桜、こぶし、木蓮などが一斉に咲き、カラマツの芽吹きのうすみどりの霞の中に薄紅色や白のマッスがぽおっと浮かんで夢の様な景色を現出してくれていました。

 花の家が建つことになっていたC.Wニコル氏のアファンの森の一角には立派なゲストハウスが竣工して、これから起こることがどんなすてきなことかワクワクさせてくれます。花の家のために弟と二人で植えた紅枝垂が一本さびしそうに枝を揺らしていました。伐られる寸前にニックと弟が救って移植したコブシの木は大きくなってたくさんの花を咲かせ、ゲストハウスの門番を務めているようでした。

 森の中は水音があちこちにして、鳥たちの喜びに満ちた声が響いていました。いちりん草、にりん草や水芭蕉が咲き、さまざまな山菜も顔を出しています。

 こんな頃、弟はいつも山菜のお寿司を作ったものでした。すし飯の中はしいたけと焼きあなご、のり位で錦糸卵の上にこごみやわらび、木の芽などを散らします。たらの芽、山うど、こしあぶら等は天ぷらにすることになるでしょうし、クレソンや芹なども食材になり、弟なら花の家でどのような出し方をしたのだろうと食材を前にして思いめぐらします。大好きだった捏ね鉢(ていねいに削りたっぷりと漆をかけた)に盛ってお好きなだけ召し上がれとおすすめしたことでしょう。

 御自分は天ぷらを揚げながら___。

第七章 - 空想の宴 花の家の七夕

 実現しなかった花の家の主、弟 中原英治は、入院中の病室で七夕飾りをつくり病院中の話題になりました。

 散歩の途中で切って来た笹に願いや心にかかる人々の名前を書いて吊し、美しく静かな雰囲気を醸していました。よほどめづらしい事だったらしく、他の階の看護士さんたちも次々と見に来られてたのしまれたのでした。

 こうしてまでその季節をたのしもうとする人でしたので、黒姫は特に星が美しく見えるところ、どんな星まつりのお料理を考えるのかしらと思いつつしつらえてみました。茄子の茶筅煮とおそうめんを盛ってみましたが、私が考えるよりもっともっとお客様をよろこばせることの達人でしたので、私の発想など「こんなもの」と笑っているかもしれません。

「エイジへの頌徳のことば」(C.W.ニコル)

エイジへの頌徳のことば
C.W.ニコル

とても大切な友だち

昨年6月10日、私の大事な友だち中原エイジが逝った。65歳だった。

多くの読者は黒姫にあるペンション竜の子のオーナーであり、素晴らしいシェフであったエイジのことを忘れないだろう。特に1980年代半ばの「バブル」時代、そして20世紀が終わるまで、銀行家や金融関係の人々が群れをなして東京にやってきた頃、在日外国人たちの間で竜の子は大人気だった。長年にわたって、その常連客の90パーセントは外国人だった。広告などしなかったが、彼の料理人としての名声と、すばらしいもてなしは口コミで広がった。スキーシーズンには竜の子は予約でいっぱいだった。

私はエイジから1年遅れて黒姫に来た。以来25年間彼は私の大親友だった。共通の趣味もいっぱいあったが、そうでないものもあった。私はゴルフが好きではないし、エイジは武道やカヤックに全く興味がなかった。スキーでは、私はクロスカントリーが好きだし、エイジはスロープを好んだ。でも私たちは二人ともおいしい料理、ワイン、花、木々、日常使いの道具のシンプルな美しさを愛した。(もちろん時々やる悪ふざけも。)エイジは、野生の花、漆器、陶器、家具に造詣が深く、私の歴史小説のファンであるというとびきりのセンスの持ち主でもあった。

ペンションの客は夜の9時を過ぎて黒姫駅に降り立つこともあった。それでもやさしいエイジは車で彼らを出迎え、山の上の宿まで連れて帰るのだった。それから、時に客と打ち解けた時には、てきぱきとおいしそうな暖かい料理を用意し、まるであくる日が休みのように遅くまで一緒におしゃべりをするのだった。それでも彼と妻とスタッフは、翌朝早く起きて素晴らしい朝食を用意するのだ。またスキーシーズンには彼らは客をスロープまで車で送っていくのだった。

眺めのいい夢

エイジの夢は、長野県の山にある、ここアファンの森トラストの所有地に隣接する場所に、会員制の小さいけれど、趣味のいい宿を建てることだった。私たちは契約書の草稿を作り、私がトラストに寄付した土地の区画を長期賃貸するという計画は理事会の承認を得ていた。そこは簡単に行けて、景色の素晴らしい土地だった。

エイジはその宿を建築し経営する準備をすっかり整えていた。一方森では、たきぎ、炭、野生や丸太栽培のきのこーしいたけ、ゴールデン・ウインター、ヒラタケなどが採れた。我々はさらに、山菜、山芋、栗、クルミ、山ぶどうなどたくさんの野生の食物を提供できるはずだった。私たちと宿では、いつ、何を、どのように使ったかを記録し、それは健康な森の豊かさと利用の仕方を理解する手助けとなる貴重なデータになるはずだった。客は、森の中を散歩したり、雪靴で歩いたり、クロスカントリースキーをするときには、ルールを守り、また我々は、クマや巨大なスズメバチの巣がトレイルにあるとわかった時には警告を発し、客を守るつもりだった。ガイド付きのツアーも計画していた。

いろいろ相談をし、理事会の最終承認もおりた後、エイジはプロジェクトの詳細な計画と設計を始めた。彼は建築家を雇い、陶器や美術品を買入れ始めた。しかし、彼はガンの闘病中だったのだ。私たちみんなは、その夢のために彼が生き続けることを心から願っていた。

数年前のある星のきれいな夜、私は、もう一人の友人であり、日本での著作権代理人だった安井マコトと焚き火のそばでウイスキーを飲んでいた。やがて話題は死についての思いやジョークになっていった。ウイスキーにはどこか暗くケルト的なところがあり、そのために時々そういう話題になるのだ。あなたがウエールズ人かアイルランド人の血が入っているなら、私の言うことがわかってもらえるだろう。

私の遺書には、その時が来たときにどうしてほしいのか具体的に書いてある。私の遺灰は大好きな大きな樫の木のそばに撒き、人々が休めるように石のベンチを置いてほしい。その石の端の方に刻んでほしい短い詩も遺書に書いてある。それは、静かにすわり、鳥やカエルの声を木々にわたる風の音を、近くの小川のせせらぎを聞くことについての詩だ。―――その後にカッコに入った短いメッセージが続く・・・(若い女性は特に歓迎)。

その夜、焚き火の光の中で私はマコトに遺書のことを話した。彼は笑って、自分はシンプルな石がいいと言った。―――「ちょうどそこにあるような」と指しながら。マコトには伝統的な先祖代々の墓がある。でも彼が亡くなったとき、その夜のことを思い出し、彼の追悼のために私たちは小さな自然の川石を森に置いた。

エイジは、私と一緒に森にキノコ狩りに行ったときにマコトの石を訪れていた。そしてエイジが亡くなったとき、彼の妻のタケコが同じような記念碑がほしいと言った。エイジの家族は、日本海沿いの山口県萩のお寺に家族の墓地を持っており、彼の遺骨はそこに葬られた。しかしエイジが亡くなってから1年と1週間たった、この6月17日、親族と友人が集まって、私たちの森に新しい記念碑を作った。

エイジの記念碑も自然の川石で、シンプルなメッセージを英語で刻んだ。世界中の彼の友人たちがみんな読めるように。彼の妻、娘、息子、そして姉が望んだとおりに。その石のところに行くためには、森の中に木屑をひいた柔らかな小道を静かに7分ほど歩く。朝は美しい山桜の木がそのに日陰をつくっている。

私たちはその下の斜面の枯れたりかれかけたりしている繁みをきれいに片付けた。そこには木々が育って陰になってしまうまでの数年間は春になるとすみれの絨毯が敷きつめられることになる。この静かな斜面に、私たちは数百本の落葉樹を植えた。その多くは、花が咲き、果実をつけ、どんぐりや木の実をつけ、鳥などの野生動物が集まってくることだろう。

幸せでワイルドな時間

帯水層を少し低くして、周辺の木々が深く根を張って、より強くより元気になるように、私たちは小川を作った。そこにはいつもきれいな冷たい水が流れ、今はホタルの幼虫のエサになる小さな黒い巻貝がいる。近くの池では夏になるとホタルが飛び交う。私はそのホタルたちがこの新しい人工の小川にも来てくれるのを楽しみにしている。

数年前、私の家の近くにある自分のロッジのまわりに、エイジはアメリカハナノキ(カエデ?)とハナミズキを植えた。よく育ったので、私たちはそれぞれ1本ずつ記念碑のそばに移植し、セイヨウミザクラ、素晴らしいフジのつる、その他の木々や花とともに、そこを澄み渡った美しい場所にした。

そこは陰鬱な墓地ではない。それはすぐに苔で覆われるシンプルな石だ。そこは静かにエイジのことを想う場になる。竜の子でみんなで過ごした楽しい、そして時にワイルドな日々を想う場になるのだ。おい!あのバーベキューやラウンジでやった雪合戦を覚えているか!

エイジの妻のタケコは今も竜の子を運営し、彼のよき友人だったハルミがおいしい料理とワインの伝統を守っている・・・。ワインでなくても、日本酒でも焼酎でもビールでもウイスキーでも、何でもお好みのものでいいのだ。だから、親愛なる読者や友人の皆さん、帰ってきて、エイジがあれほど愛した森を見てください。

こういう石は森の中で決して場違いなものではない。トンボや鳥がとまるだろうし、ツグミがカタツムリを砕く台にするかもしれない。地面から突き出た石は土に暖かさをもたらし、木々の成長を促すだろう。それらすべてが自然の風景の一部になり、決して不気味な場所にはならない。

ところで、私の祖父母と両親は火葬して散骨したので、私はイギリスに行っても、思い出にひたるために訪れる場所がない。それが少しさびしい。ここにある私たちの森では、私は散歩をして、マコトとエイジにそっと挨拶することができる。時には暖かい石にもたれてすわり、携帯ボトルに入れたウイスキーをすすりながら、過ぎた時と友情を静かに想うこともできる・・・。移りゆく森の風景を静かに楽しみながら。

感傷的だと言うだろうか。そうだ、この年老いたケルト人には感傷的になる権利がある―――どこかのバーの片隅よりこの場所で感傷にひたる方がずっといい。

ジャパンタイムス オンライン

2007年7月4日

OLD NIC'S NOTEBOOK - C.W.ニコル
>4.3寸椀がある食卓|4.3寸朱椀・奥田志郎