染付
染付花文深皿・植山昌昭

人間業と自然との対話

 植山昌昭さんとの御縁は、2000年春からだったと思います。
 この写真のお皿を持って、誰方の御紹介もなくとび込んで来られました。私はもう忘れているのですが、私が「こんな綺麗な釉薬の焼物は要りません」と云ったそうです。彼はすぐにその意味を理解したとおっしゃいます。
 彼がその時使っていたのは一号石灰釉でした。これを使ったやきものは掛け斑もなく染付の顔料の発色もよく、滲みも出ずつるりと焼けます。
 これを良しとしてしまうと何のトラブルも起こらず同じものが同じように焼けることになります。ものを造っている人にとっては失敗の少ない一番無難な安定した材料なのです。けれども敢えて危険を冒してまで天然の不安定な釉を何故使っていただくのでしょうか。
 それは、さまざまの工程の不安定なるが故の面白さと人間業と自然との対話を見るたのしみと、一つずつ表情が違う自然のおもしろさ、人間が長い間かかってさまざまな工夫をして来てもまだ新しいことが生まれる。その全てを楽しむことが出来、その深みが美しいからなのです。
 安定しない、価格が高い、作る人にとって大変不利なことをかかえつつ、無数にある材料の配合を自分で模索し、形成した胎土にその釉薬をかけて焼いた時の顔料の胎土と釉へのしみこみ方など試してゆくのです。同じ素性のものでも窯の中の少しの温度の変化やかける時の微妙な濃淡の差で表情は違ったものになりますし、何かの加減で少し混ざった鉄分がほくろの様に吹き出ることもあります。
 さまざまな関係で染付顔料が溶けた釉にまざって、滲んでしまうことは多いのです。あまりはっきり、くっきりしたものよりも少しにじみがあるのを好まれる方も多くいらっしゃいますが、感覚的に解っていただいているからでしょう。
 作り手はさまざまなことを考えつつ、これならと思われるものを選別して納品して下さいます。ようびはようびの視点で作品を頂戴します。人間業として受け入れる限界は作者自身もそしてお客様も違うのは当然ながら、お客様からのクレームを恐れるあまり無難なものばかり氾濫し、とうとうもの自体を悪くしてしまった。焼き物だけでなくすべての工芸の惨憺たる歴史を見て来ました。
 無数にある技術や釉の配合を考えつつ出来上がりをイメージして窯に入れても少しの条件の差でイメージ通りのものが出来るとは限りません。
 京都の小児科医であり陶芸家、文人でいらっしゃる加藤静允先生は「窯の中の雰囲気できまるのです」とそんな言葉を用いてこの「ゑ」も言えぬ窯の中の出来事を説明して下さっています。ようびのお客様にはこの人間業の不確実さを御容認いただき、やさしさを持って自然の釉のおもしろさを味わって受け入れていただきたいと、このところどんどん腕を上げてこられた植山さんの作品を含めて切に願うものです。

工芸店ようび 店主 真木