「文化としての眠り」 文:辻 貴史(株式会社ワタセ社長)
 
 私は創業130年続いた「ふとん屋」の4代目だ。

 昔のふとん作りは、家庭で母親や祖母の仕事となっていた。母親の手作りのふとんは、たとえ質素ではあっても、目の前で繰り広げられた母親の姿やフワフフワとした綿の質感が、子ども達に安心と温かさを感じさせたに違いない。

 現代では家庭でふとんを作ることがなくなり、既製品を買うのが当たり前になった。昔は「ふとん屋」のことを「綿屋」と呼ぶのが一般的だったが、今では綿だけを売る店(会社)はあまり見かけなくなった。

 個人的にも「眠り」にこだわっている私としては、「ふとん屋」に飽き足らない思いがある。眠る為の材料や製品の提供だけで、果たして満足な「眠り」に貢献できるのだろうかと疑問を持っている。「眠り」は私たちの健康だけでなく、精神生活にも大きな要素を占めているのだ。更には、睡眠時間の長さだけでなく、その質も大いに気になるところだ。

 睡眠の欲望は、食欲、性欲と並んで人間の三大欲望の一つである。本能でもある私たちの人間の欲望が動物の欲望と異なる点は、そこに快楽や歓びをより深く追求するところにある。快楽で絶頂期の顔を讃美し敬愛することこそが、文化であると私は考えている。芸術であれ、科学技術であれ、あらゆる産業は、「幸せな顔」「嬉しい顔」に貢献することがそれらの役割なのだ。

 文化としての食があるように、文化としての眠りが追求される時代が来ると私は確信している。それは健康の為だけでなく、楽しみの為の眠りを意味しているのだ。食事が健康にいいというだけで美味しくなかったとしたら、どんなにかつまらない毎日だろう。

 平安時代には、優れた眠りへの試みが見受けられる。香を夜着に染み込ませて夜に備えるという、繊細な日本の匂いの文化があった。快楽としての「眠り」は、単に睡眠している間だけではなく、そこにいたる導入の時間帯や寝起きの時間帯をも包括して「眠り」なのだ。私は寝具の開発に留まらず、安心感の持てる寝室や建築のあり方、さらには音楽や匂いの演出、文学や瞑想の役割など、あらゆる文化と融合した「眠り」を追求したいと考えている。味わい深く、感動さえ憶える「眠り」なのだ。

 「今日の眠りは、とてもスイートだったわ。明日は少しビターにしてみようかしら、あなた。」

 その日を早く実現させる為にも、綿屋やふとん屋に別れを告げて、私は「眠り屋」を宣言しょうと考えているのである。

Copyright (C) 2006 watase All Rights Reserved.