ふとんの歴史

 現在の敷蒲団に相当するものは古代、むしろと呼ばれていました。むしろとは、かや、藁、稲、蒲などを編んで作った敷物のことで、薦とも呼ばれました。


 平安時代には畳が敷蒲団の中心でした。“たたみ”とは、「重畳(かさねだたみ)する」「幾重にも積み重ねる」という意味で、最初は畳といっても、ただむしろを何枚か重ねて敷くだけのものでした。こうした何枚もむしろを重ねた畳のことを『古事記』や『日本書紀』では、八重畳(やえだたみ)と呼んでいました。


 この後、快適さが求められるようになってしとねが使われるようになりました。しとねとは絹や毛皮などでつくった敷布のようなもので、これが畳の上に敷かれました。しかし、こうしたしとねや畳を使うことができたのはごく一部の貴族階級だけで、一般庶民のほとんどはむしろや薦はおろか、ただの藁などを敷いてそこで寝起きする程度のものでした。


 上に掛けるものをふすまといい、『伏す裳』の意味だとされます。材料により、苧(むし)ぶすま、麻ぶすま、絹ぶすまなどがあり、高級なのはもちろん絹ぶすまでした。その中でも特に、まだらぶすまは緋、黄、はなだ(うすい藍色)の布を一幅ずつ取り混ぜて縫いつなげたものでこれは最上のものとされました。
 平安末から鎌倉時代になると、現在、掻巻(かいまき)と言われる衿や袖のついた寝具が出来てきました。室町時代になるとこれは御衣(おんぞ)と名前が変わり、さらに近世には夜着や掛蒲団となります。いずれにせよ近世になって木綿綿が普及するまでは真綿が使われ、それは昼間の衣服を少し厚めにした程度のものでした。ふすまなどが使用できたのは、上流貴族の一部だけで、一般の人々は昼間着ていたものを脱ぎ、それを掛けて寝ていました。











 寝具に大変革をもたらしたのは木綿の普及です。詰め物としての綿と同時に外側の布地も絹から木綿に変わりました。


 木綿は平安時代に一度、草綿が中国から伝えられたものの移植に成功せず、一時期途絶(とだ)えていました。戦国期に入ると、兵衣・帆布などの軍需が増したため、中国からの輸入によりその需要に充てましたが、この頃になると我が国でも三河・遠江(とおみ)などで木綿の国産が始まります。生産は年を追って増加し、江戸時代に入る頃には西日本の太平洋岸・瀬戸内・九州へと産地は広がりました。近世になると上(うわ)むしろという言葉が蒲団に変わり、また直垂(ひたたれ)ぶすまとか宿直物(とのいのもの)と呼ばれていた衿・袖付の綿入れは夜着と呼ばれるようになりました。


 やがて幕末には今の衿・袖のつかない長方形の夜着が作られます。四周に額縁のような縁をつけたもので今の敷蒲団と同じ形です。これによって上掛けを大蒲団あるいは掛蒲団、敷く方は敷蒲団と呼ぶようになります。後に敷蒲団の方は縁はつけなくなりますが、掛蒲団の形はそのまま現在にまで続いています。


 しかし明治になってもこうした寝具が使えたのは庶民の中でもごく一部で、大部分は薦やむしろ、農村では藁のかます・もみがら、海岸では海草を麻袋に詰めたり、山村では、マダの樹皮や籐・苧ぐそを詰めた夜ぶすま、また都市でも紙のふすまが使われていました。


<参考文献>
  家具と家内意匠の文化史
  財団法人法政大学出版局









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