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和紙の産地は全国に数多くありますが、福井県の越前和紙は、歴史においても最も古いと言われ、現在も生産量としては日本一を誇ります。受け継がれた技術と品質は、奉書として歴史の節目を記録してきましたが、アートの世界においても国内にとどまらず、海外の著名な画家や作家たちからも愛されてきました。

越前和紙の発祥は、今から約1500年前にさかのぼります。それはまだ26代継体天皇が男大迹皇子として越前に潜んでいた頃(499年)、岡太川の上流に美しい女神が現れ「この村里は谷あいで田畑が少ないが、水清らかな谷川と、緑豊かな山々に恵まれているので、紙漉きを生業とすれば生活も楽になるであろう」と村人たちに紙の漉き方を伝授したそうです。
村人に名を尋ねられた女神でしたが、“岡太川に住む者です”との言葉だけを残し、そのまま姿を消してしまいました。それは、山間で田畑を耕すことが難しかった当地にとって紙漉きという新たな営みが生まれた瞬間であり、その後この地に根ざした産業として何百年も続くこととなるとてもありがたいものでした。

紙自体としては、中国から伝わった製紙技術がはじまりとされていますが、これは麻を原料としているもので、大変弱く保存性に乏しいものでした。そのため日本では、麻より短くて切断しやすく、手に入れることが容易な“楮”で紙漉きが行なわれるようになり、幾度にも及ぶ改良の結果、日本独自の和紙が確立されていったのです。
それからは日本の歴史と共に和紙は私たちの暮らしに大きな影響を与えるものとなっていきます。主に国策による需要と仏教の信仰が盛んになったことがあげられるでしょう。飛鳥時代に行なわれた大化の改新では、徴税のため全国の戸籍や税を記入するために和紙が必要となり、越前でもたくさんの紙が漉かれていました。仏教の伝来においても写経を行なうことによって誰もが紙の必要性を感じ始めたのです。

そんな中「越前和紙」の名を全国区へ伸し上げたのが「鳥の子紙」と「越前奉書」です。和紙は武家社会になると公用紙として使用されるようになり、このときに重宝されたのが越前鳥の子紙なのです。紙の色が鶏の卵のような淡い色合いをしていることからその名が付き、なんといってもその品質の良さは折り紙付き。紙の王者とも称されてきました。
また、室町時代には越前奉書が生まれました。奉書とは、公家・武家の公用紙のことで、主に楮を原料とした上質な楮紙が使用されたことから奉書紙と呼ばれるようになりました。越前奉書は厚手のふっくらとした質感が特徴で、1338年将軍の命令を記す奉書専用の最高級紙として全国に広まったそうです。さらに江戸時代には幕府の御用紙となり、高級浮世絵版画用紙としても美しく巧みな江戸の芸術が多く描かれました。

もう一つ、越前和紙を語る上で決して欠かせない歴史があります。それは、日本最古の藩札「福井藩札」や明治新政府の「太政官金札用紙」がこの越前「五筒」の地で漉かれていたということです。紙幣印刷の拠点として印刷局紙幣寮が設置され、日本の紙幣と越前和紙はとても密接な関係となりました。
このように越前和紙は約1500年という長い年月の中で公用紙、写経紙、版画用紙、紙幣とさまざまなものに形を変えて私たちの暮らしを支えてきました。そして今も越前和紙の里・今立では、高い品質と技術、種類、量という日本一の和紙生産地としてその営みが息づいています。

越前市は福井県の嶺北地方にある市で、人口はおよそ8万5千人。越前和紙の里は元々、今立郡今立町でしたが、平成17年、旧武生市と旧今立郡今立町の合併により越前市となりました。
地形は、東部の越前中央山脈、西部の丹生山地、南部の「越前冨士」と呼ばれる日野山(795メートル)など、400から700メートル級の山々に囲まれ、武生盆地をつくっています。旧今立町はそんな山間部に位置しており、昔からその姿を変えることなく現在へと続く、きれいな水と澄んだ空気、その他にも多くの自然に恵まれた貴重な地域です。決して人の行き来が盛んではなかった土地柄や文化の影響もあり地道に丁寧に職人の技が磨かれ、今もなお最高峰の和紙を生産し続けることができる魅力溢れる町なのです。