越後村上うおやのお人形さま

明治・大正時代の人形

明治 武者人形

古雛を 飾れば笑みを 返しけり

明治 雛

古い武者人形 
(江戸、又は明治時代)

明治時代の、雛人形です。
雛の時期に、ひな壇飾られた人形

武者人形 武者人形

小さい武者人形

旗持の武者人形

明治 武内宿禰 応神天皇 神功皇后
明治時代 
応神天皇の産みの親「神功皇后」と乳呑み児の応神天皇を抱いた「竹内宿禰」

 

応神天皇 おうじんてんのう 別名:誉田別命(ほむだわけのみこと) 

西暦四世紀末の大王。仲哀天皇と神功皇后の間の第四子。母后の朝鮮征伐後、筑紫で生まれる。神功三年、皇太子に立てられ、同六十九年、母后の崩後、即位。景行天皇の曾孫仲姫を皇后とする。在位中は朝鮮半島からの文物技術の導入、大和・河内地方の開発などを進めた。四十年、末子宇治稚郎子を日継と定める。四十一年、崩御。陵は大阪府羽曳野市の誉田山古墳に比定されている。

 

武内宿禰

武内宿禰 たけしうちのすくね

古事記によれば孝元天皇の孫。比古布都押之信命の子。母は山下影日売(木国造の祖、宇豆比古の妹)。巨勢・蘇我・平群・葛城氏などの祖とされる。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に仕えたとされる臣。景行天皇の時、北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。成務天皇が即位すると、大臣となる。仲哀天皇崩御の時、忍熊王らの反乱を鎮圧する。応神天皇の時、韓人池を造る。また謀反を讒言され、探湯(くかたち)により罪を晴らした。仁徳天皇が誕生した際には、自分の子供と同日の生れであったため、名を取り替えたという

神功皇后
神功皇后
じんぐうこうごう 
別名:息長足比売尊(おきながたらしひめのみこと)
 

気長宿禰王(開化天皇の曾孫)の娘。母は葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)。応神天皇の母。仲哀天皇の二年、皇后となる。八年、天皇の熊襲征討に従い筑紫に下った際、神がかりして新羅征討を訴えるが、天皇はこれを容れず、翌年崩御。皇后は四大夫(中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連)に命じ、百寮を率いて宮中を守らせる。同年冬、新羅に出兵し、新羅は戦わずして降服。翌年、皇太后を称し、政事を司る。摂政六十九年四月、磐余の稚桜宮で崩御。陵墓は佐紀古墳群中の五社神古墳(奈良市山陵町)に比定されている。