三波春夫(みなみはるお)略歴
大正12年新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身。昭和14年、南篠文若として初舞台を踏むも、19年1月に召集を受け満州へ。4年間のシベリア抑留中も浪曲の制作・上演活動に励み、帰国後に全国巡業を開始、曲師を務めた夫人の助力で数々の新作を生む。32年、三波春夫として「チャンチキおけさ」、「船方さんよ」で歌手デビュー、甘美で伸びやかな声は聴衆を虜にし、両曲は爆発的ヒットとなる。また、「一本刀土俵入り」など台詞入りの時代歌謡で独自の世界を開拓。39年には長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」を発表し、浪曲と歌謡曲を融合した新しい音楽芸能を創り上げた。レコード大賞での受賞、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章…数々の栄冠と記録を塗り替えながら歌謡界の頂点を極めた。平成13年4月、永眠。
二葉百合子(ふたばゆりこ)略歴
昭和6年東京都葛飾区出身。3歳の時に「佐渡情話」を読み初舞台を踏む。28年、百合子にとって初の大作となる「ひめゆりの塔」は大反響を呼び、独演会は大成功を収める。32年、「女国定」で歌手デビュー。歌手としても本腰で取り組み、浪曲との二筋道を精力的に歩んだ。百合子の名を不動のものにしたのは47年に吹き込んだ台詞入りの「岸壁の母」。一躍ヒット曲となり紅白歌手の仲間入りを果たす。近年は、多くの演歌歌手を門下に迎え、歌謡節や浪曲的歌唱表現を後進に伝えている。平成23年3月、惜しまれつつも引退。
村田英雄(むらたひでお)略歴
昭和4年福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)で浪曲師の子として生まれる。文芸浪曲の大家酒井雲に入門。酒井雲坊と名付けられ、天才少年浪曲師の名を馳せた。新人の登竜門「新作浪曲コンクール」で優勝し、これを機に村田英雄に改名。数々の受賞を重ね、当代のスター浪曲師となった。また、古賀政男にスカウトされ、「無法松の一生」、「度胸千両」で歌手デビューする。36年に「王将」が戦後初のミリオンセラーとなったことをきっかけに、過去の発表曲もヒット曲となり、歌手・村田英雄の地位を不動のものとした。平成14年、73歳で永眠。
真山一郎(まやまいちろう)略歴
昭和4年山口県下松市出身。実家に出入りする浪曲師の影響で幼くして浪曲の道を志し、高校卒業後は、師匠(華井新)と二枚看板で全国を巡業した。30年代に入ると時代の流れを汲み、歌謡曲入りの浪曲を吹き込んだり、マドロス衣装で語ったりすることもあった。上京後の36年から翌年にかけて「刃傷松の廊下」がヒットし、歌手としての地位を確立。歌謡曲の世界で活躍した真山を浪曲の世界に引き戻した新作歌謡浪曲「日本の母」は驚異的な売り上げを記録し、浪曲師としての評価が定まった。平成22年、引退。
天津羽衣(あまつはごろも)略歴
昭和3年三重県伊賀上野市出身。少年浪曲で名を馳せた父と、浪曲の名跡を継ぐ母のもとに生まれた羽衣。「九段の母」を読んで初舞台を踏む。サラブレッドの風格と天賦の美声を備え、聴衆は羽衣節に熱狂。瞬く間に人気を得た羽衣は、一枚看板の座長として活躍し、戦後は映画にも出演。ギターやアコーディオンの洋楽伴奏を取り入れた歌謡節を作り上げ、積極的に歌謡浪曲に取り組んだ。36年、本名で吹き込んだ歌謡曲「お吉物語」が大ヒット、浪曲でも「原爆の母」、「瞼の母」など母もので涙を誘った。昭和57年、永眠。
京山幸枝若(きょうやまこうしわか)略歴
大正15年岡山県苫田郡出身。浪曲師の両親を持ち、5歳で初舞台を踏む。昭和16年に幸枝若を名乗り、戦後は独立。地方廻りで実力をつけ、大阪へ。たちまち人気を集める。「会津の小鉄」、「河内十人斬り」などの浪曲のほか、河内音頭なども吹き込みヒット、関西を代表する浪曲師となる。新歌舞伎座公演を開き、浪曲親友協会の会長も長く務め、紫綬褒章を受章。平成3年6月、永眠。
大木伸夫(おおきのぶお)略歴
大正14年佐賀県伊万里市出身。大阪の浪曲寄席で初舞台を踏むが、昭和19年出征し、22年復員。関西を中心に浪曲修行を続け、32年に上京。新進花形として活躍する一方、歌謡曲を学び将来を模索することもあった。歌謡浪曲「トニーは今も生きている」、「流転」でレコードデビュー。「青年よ大志を抱け」で歌手デビュー。39年に「涙の酒」がヒットし、歌手としての評価が定まった。