★当店周辺のご案内(西本願寺)★
◆西本願寺 刀傷◆

文慶応元年に”新撰組”は手狭になった「壬生」から屯所を「西本願寺」へ移しました。太鼓楼にある太鼓は、隊士たちも叩いたとか。
隊士たちは「不動堂村」に屯所を移すまでの約2年間、ここで生活しました。隊士たちは、境内で豚を飼ったり軍事訓練をおこなったそうです。
そんなことが今では想像できない威厳のあるお寺です。

◆西本願寺◆

親鸞(しんらん)聖人が亡くなったのち、親鸞の末娘(覚信尼)が堂宇をつくり、御影を安置したのが始まりです。 長く転々としたのち、豊臣秀吉から寄進を受けてこの地に落ち着いたようです。 よって、西本願寺は、真宗建築の特徴と桃山文化の影響を強く残しています。 とても文化豊かなところところです。


◆唐門(国宝)◆

「西本願寺」の数ある国宝一つの「唐門」は、南側の塀にあります
外見はものすごく豪華なつくりで、圧倒されます。「唐門」は日が暮れることさえ忘れて見とれてしまうということで、別名「日暮門(ひぐらしもん)」とも言われているそうです。


◆鴻の間(国宝)◆

西本願寺の御影堂は阿弥陀堂より大きく、その後方に書院を配する構造は真宗建築の典型です。
書院の鴻の間(こうのま)は、ご門主との対面に使われる広大な広間です。
上段正面の欄間(らんま)に雲間(くもま)を飛ぶ鴻(こうのとり)の透かし彫りがあることから、こう呼ばれています。
今も西本願寺は真宗建築の特徴と桃山文化を色濃く伝えています。

◆北能舞台(国宝)◆

「西本願寺」には常設の能舞台が書院の南北に二つあり、「北能舞台」は現在日本最古の能舞台で国宝です。だれが何のために作ったのか諸説があります。
能舞台の下には数個の大きな「瓶(かめ)」が埋められていますが、これは桃山時代に発案されたもののようで、「西本願寺」の能舞台の床下にも配置されています。


◆黒書院(国宝)◆

「書院」の北にある江戸初期の数奇屋(すきや)風代表的建築が「黒書院」です。
数奇屋造りとは、書院造を基礎とした茶室風の建築のことです。
「黒書院」は名前の由来通り、一面が漆で塗られた渋い部屋です。
「黒書院」は、内向きの対面や接客、また門主の寺務を行う場として使われていました。
一の間、二の間、茶室、鎖の間、広敷などがあります。


◆飛雲閣(国宝)◆

豊臣秀吉の「聚楽第(じゅらくだい)」からの移築とも言われる「飛雲閣」は「西本願寺」の東南にあります。
「飛雲閣」は、「金閣」「銀閣」とともに洛陽三閣と呼ばれていますョ。
「飛雲閣」の出入りは、舟で行うのが正式だそうで、1階に舟入の間があります。
まさに空を飛ぶような個性的な「飛雲閣」は、残念なことに普段は公開されていません。
「西本願寺」の塀からわずかに屋根が見えるだけです。


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