Matcha-抹茶とは

「碾茶-てんちゃ-(覆下栽培した茶葉を碾茶炉等で揉まずに乾燥したもの)を茶臼等で微粉末状に製造したもの」
と定義されています。

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香月園抹茶の産地

全国より厳選された抹茶

抹茶の消費量が全国トップレベルの島根県で育った色鮮やかな出雲抹茶。
水はけのよい肥沃な土壌、気候に恵まれた地で栽培された高級宇治抹茶。
日本トップクラスのお茶の生産量を誇る鹿児島でつくられたオーガニック抹茶。
全国の産地の中から厳選した抹茶を、最高級から製菓用まで幅広く取り扱っています。

出雲抹茶

縁結びと神話の地、出雲が育てた色鮮やかな抹茶。
産地特性として、島根県は何度も美肌県で全国一位になる程の曇りが多い地域であり、抹茶や玉露を栽培するのと同じ原理で光合成の際に少ない光を取り込もうと葉の葉緑素を増やします。
他の茶産地は比較的日照時間の長い地域が多いため、それらの産地の茶葉に比べて茶葉自体の緑色が鮮やかです。

宇治抹茶

宇治抹茶は、水はけのよい肥沃な土壌、気候(昼夜の温度差、降水量)に恵まれた地で栽培された上質な茶葉を使用した抹茶です。
今では様々なお菓子や飲料に「宇治抹茶使用」と表示されるほど、宇治抹茶は抹茶ブランドとして確立されています。

鹿児島抹茶

日本トップクラスのお茶の生産量を誇る鹿児島でつくられたオーガニック抹茶。
農薬や化学肥料などの化学物質を使用せず生産された農作物を有機栽培といい、登録認定機関が、有機食品のJAS規格に適合した生産が行われているか検査し、認定された抹茶です。

丸久小山園

丸久小山園は元禄年間、茶に適した宇治小倉の里で、園祖小山久次郎が茶の栽培と製造を手がけたのが始まりです。
以来、代々にわたり、宇治茶の伝統と品質の改善に努め、四代後には茶の販売も手がけるようになりました。
その後、明治に入って八代目を継いだ元次郎が全国に販路を広げました。その「品質本位の茶づくり」は、栽培から製造まで一貫して行われ、数々の賞や栄誉をいただき、多くの人々に品質の丸久小山園と広く親しまれております。
※ 丸久小山園公式ウェブサイトより

Choice-抹茶を選ぶ

濃茶用抹茶

抹茶の量に対してお湯の量が少ないため、茶がとろりとしていることからつけられた名称です。
薄茶は点(た)てるというのに対して、濃茶は通常、練るといいます。
濃茶は薄茶の約2~3倍の抹茶を使用します。

薄茶用抹茶

一般的に茶道の抹茶のイメージの薄茶。
茶碗に抹茶とお湯を入れ、茶筅でシャカシャカと白っぽい泡がたちます。

製菓用抹茶(生菓子向け)

抹茶は茶葉の等級により「色・味・香」が異なります。
お菓子作りに使う場合、作るものによって必ずしも等級の高い抹茶がいいとは限りません。
等級の高い抹茶は色はいいですが、抹茶独特の苦みが少なくお菓子で使う場合、味が物足りなく感じる場合があります。
香月園では、これまでの抹茶の取り扱いの経験から、自信をもってお勧めする製菓・加工用抹茶を取り揃えております。

製菓用抹茶(焼菓子向け)

抹茶は茶葉の等級により「色・味・香」が異なります。
お菓子作りに使う場合、作るものによって必ずしも等級の高い抹茶がいいとは限りません。
等級の高い抹茶は色はいいですが、抹茶独特の苦みが少なくお菓子で使う場合、味が物足りなく感じる場合があります。
香月園では、これまでの抹茶の取り扱いの経験から、自信をもってお勧めする製菓・加工用抹茶を取り揃えております。

用途で選ぶ

  • 濃茶用

  • 薄茶用

  • おけいこ用

  • 製菓用

濃茶用

薄茶用

おけいこ用

製菓用(生菓子)

製菓用(焼菓子)

容量で選ぶ






  • 30g

  • 50g

  • 100g

  • 500g





  • 40g袋

  • 100g袋

  • 500g袋

  • 1kg袋



ほうじ茶パウダー



History-抹茶の歴史

日本に茶が伝来したのは明確にはわからないが、奈良時代初期、聖武天皇の天平元年(729年)に宮中で僧侶に引茶として茶を賜ったという話が残っているので、少なくともその頃までには遣唐使などによって茶種が伝えられたと推測できる。

近江坂本の茶園が日本最古の茶園として知られており、最澄が唐から帰った際に持ってきた茶種を植えたものだといわれている。

喫茶が文献に見えるようになるのは、平安初期であり、弘仁六年四月(815年)、嵯峨天皇が近江の唐崎に行幸された際、梵釈寺の僧、永忠が茶を煎じて天皇に奉った、とされる。永忠は奈良時代末に唐へ渡り、喫茶の作法を学んできたものと思われる。「日本後紀」

なお、唐(中国)では永忠の入唐より130年以前、760年頃、陸羽が「茶経」三巻を著した。
この永忠の煎茶献上によって、天皇により茶種の栽培が奨励され、茶の生産が増加し、喫茶趣味が公家社会に広まった。

唐風の団茶に代わって鎌倉初期に渡来したのが宋風の抹茶(碾茶)である。これは宋から帰朝して臨済宗をわが国に伝えた禅僧栄西によってもたらされた。栄西は「喫茶養生記」二巻を著し、喫茶の功徳を説き、茶の栽培法や抹茶の製り方などを紹介した。

建保二年三代将軍実朝が深酒がもとで病にかかった際に加持祈祷につとめたが良薬と称して抹茶一盞と「喫茶養生記」を献じた。抹茶を喫した実朝は病が快方に赴いたのを喜びまた栄西の献上した「喫茶養生記」を読み抹茶の法を大いに礼讃したのである。

鎌倉時代に栄西によってもたらされた宋風の抹茶法は、主として寺院僧侶の間に行われたが、世俗的にはそれほど普及したとはいえなかった。

これが一般的に広まったのは、鎌倉末期のころ、宋代に行われた闘茶の遊戯が渡来してからであり、その全盛期は、南北朝時代から室町中期にかけてである。

この闘茶も、わが国の風土や習慣、それから歌合、連歌会などという伝統的遊芸の影響を受けて、次第に日本化してゆく。

この室町初期の茶人としては、佐々木道誉、赤松則祐などが有名。

その後、三代将軍足利義満によって宇治七園が指定され、宇治茶の基が開かれた。

義満の時代はまだ闘茶の全盛期であったが、茶室も茶会の趣向も著しく和様化してきた。

室町中期頃、六代将軍足利義教のとき、能阿弥によって茶儀が制定される。これにより上流武家社会における厳粛な茶湯が始まった。酒宴や博打などは一掃され、茶室は書院の広間を中心に閑雅な美の殿堂へ、と化していった。

茶の礼法を、形よりも心の問題として、真の茶の道を提唱したのは、同時代の珠光であった。故に、珠光のことを茶湯の開山と称している。また、書院の広間に代わって、草庵の四畳半が真の座敷とされ、これを数寄屋といった。

室町末期、応仁の乱によって世の中は一変する。足利将軍家の権威は地に落ち、将軍家伝来の名物茶器は新興大名や寺院、豪商などの手に渡った。殊に堺の町は陸上交易、中国・南蛮貿易の中心地として発展していった。そうした環境の中から武野紹鴎が現れる。紹鴎の目利きの標準となったのは侘び寂びの風体であった。

その後、織田信長の上洛により、形勢は再び一変する。堺の町は信長に属し、天下の名茶器は続々と信長に買い上げられていった。同時に、堺の数寄者たちも信長に接近し、家臣たちに茶の道を教えた。信長も茶湯政道と称し、家臣たちに茶の道を学ぶことを奨励し、戦功著しい者には領地の代わりに名物茶器を下賜し、茶事を催すことを許可した。これによって茶の道は天下の政道として重んぜられ、茶会はいよいよ盛んになり、今井宗久、津田宗及、千宗易の三人が選ばれて信長の茶頭となった。

千利休(千宗易)は信長の茶頭となり、ついで秀吉に仕え、茶道はいよいよここに大成されるのである。