世界の鯖江
 
■100年前に眼鏡づくりを開始    ~理由は「雪国ならでは」の発想~
 
福井でめがね作りが始まったのが、日露戦争の始まったちょうど1年後の1905年(明治38年)のことでした。

福井県は雪深い地域で、しかも田畑の少ない土地で、これと言った特産物もない土地でした。

地元の豪農として知られた増永五左衛門さんは、常に村全体の経済を考えていた人で、「何か村人の生活水準を上げる方法はないだろうか?」「産業を興せば出稼ぎに行くこともない」と考えていました。

明治37年、五左衛門さんの弟であった、幸八さんが「これからの日本に教育が普及し、読書をする人が増え、眼鏡は日本人の必需品になる」と眼鏡に着目しました。

幸八さんは、豪雪地帯である福井県では冬には農作業が行われなくなるので「冬期の副業としての眼鏡づくりで村を発展させよう」と考え五左衛門さんを説得しました。 当時、眼鏡づくりが盛んだった大阪から米田与八さんという職人を招き、福井県鯖江市の若者に眼鏡の製造技術を伝えたのが始まりです。明治38年(1905年)6月1日のことです。
 
■「眼鏡の産地・鯖江」に
 
その後、眼鏡づくりの名工と呼ばれた豊島松太郎さんを東京から福井に招き、福井の眼鏡製品は品質面で飛躍的な進歩を遂げ、「帳場」と呼ばれる各職人グループごとに眼鏡が作られていき、 帳場ごとに職人が競い、腕を磨くことで分業独立が進みました。
眼鏡作りに携わるみんなの情熱が飛躍的な商品の品質を向上させ、明治44年8月増永五左エ門の名前で、内国共産品博覧会に出品した「赤銅金継眼鏡」が有功一等賞金杯を受賞しました。

製造を始めた明治38年から6年後には「福井の眼鏡」が世間に認められたことになるわけです。
 
■日本の鯖江から、世界のSABAEへ
 
戦後の高度経済成長の中で、眼鏡の需要も急増し、鯖江も産地として大きく成長しました。

眼鏡製造の自動化などによって生産効率を追求するとともに、品質の向上と技術開発に力を注ぎました。

そして昭和50年代に、世界で初めてチタンを用いた眼鏡フレームの製造技術の確立に成功。
軽量で耐久性に優れるチタンは、金属アレルギーを起こしにくい素材であることから、世界に広がりました。

そして、福井県は世界の3大メガネ産地の1つとなりました。(価格の中国、デザインのイタリア、品質の日本=鯖江)

特に鯖江市のメガネづくりが有名で、その生産量は国内の96%、世界の20%のシェアを占めるほどになりました。
 
■アメリカの大統領候補の眼鏡でも 話題になった「Japanese Sabaeの眼鏡」
 
2008年、アメリカ合衆国の大統領選挙で、共和党選出の副大統領候補 サラ・ペイリン・アラスカ州知事がかけている縁なしメガネが話題になりました。

米国の有力新聞が「ペイリン氏のメガネは日本製」と報じて、人気に火が付きました。
これが鯖江製の眼鏡でした。
中国製品など安価なメガネが国内にも流入する中で、福井のメガネも不況業種になりかけていました。

しかし、優れた品質だけではなく、洗練されたデザインを導入して世界ブランドにもなり、ぺイリン氏だけではなく世界の有名人が愛用している・・・それが「鯖江の眼鏡」です。
 
■当社は、鯖江で生まれて100年…  品質を追求するメーカーです。
 
当社(株式会社三興)は、大正元年(1912年)に福井県鯖江市で、越前瓦の製造メーカーとして誕生しました。越前瓦の歴史は古く、織田信長の家臣佐々成正が福井県武生の小谷城を築いた際に越前瓦が用いられました。
その後、当社は眼鏡用ガラスレンズ製造に進出し、眼鏡用プラスチックレンズ製造、偏光レンズの生産、加工、販売を行う『偏光レンズの専門メーカー』として皆様から高い評価を頂戴しています。
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TV番組「ガイアの夜明け」に取り上げられました ≫
 
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