■目次

序章 大塚製靴とは

第一章 明治5年

第二章 初代


第三章 宮内省御用

第四章 鹿鳴館

第五章 金賞牌

第六章 日清戦争

第七章 日露戦争

第八章 職人訓練所

第九章 グッドイヤーウェルト製法

第十章 始まりは終わりとともに













序章 大塚製靴とは

大塚製靴は、明治5年に初代大塚岩次郎によって創業された大塚商店に起源を持つ。当時、大塚岩次郎はわずか14歳であった。

明治5年、それは明治維新を経て、時代は西洋の文化を表面的に受け入れていく時代―つまり、日本における西洋靴の歴史はここから始まったと言っても過言ではない。

価値観が極めて不安定な時代に、大塚岩次郎の成した事は単純明快である。「日本人の履きやすい西洋靴を作ること」―

その結果として、若干19歳にして国内勧業博覧会での入賞、皇室御用靴の拝命、軍靴を一手に引き受けていたという事実。そして万博での金賞受賞―そうした歴史の裏には、日本の靴文化の流れの中での大塚岩次郎という存在がどのような意味を持つのかを想像させる。

「日本人にとって本当に良い靴とは何か」本当に履きよい靴を目指し、大塚岩次郎が答えを求めたこの問いは、130年たった今なお、大塚の答えるべき課題として模索され続けている。このページでは、少しずつその歴史を紐解いてゆく。



士族の出身であった初代大塚岩次郎が、「日本人に合う靴を」という意志の下「大塚商店」を開いた明治5年という時代は、果たしてどのような時代であったのか。

郵便はがきが初めて発行されるのが明治6年、電話が実用化するのにいたっては明治23年である。そして新橋―横浜間を鉄道が通ったのが明治5年の末の事であるから、世界の広がりは、例えばインターネットが普及した現代と比較すれば、全く異なったものであっただろう。食文化については、それまでは食べることの無かった牛肉を初めて口にする…といったような時代であった。

明治維新直後―古い時代から脱し、新しい時代に対して一歩を踏み出すタイミングである。既存の価値観からの脱却はすなわち、以前拠り所としていたものがすっかりなくなり、別の何かを探して彷徨うことを意味した。

既存の価値観、例えば江戸時代まであった士農工商という身分制度は(少なくとも表面的には)崩壊し、四民平等という概念が語られた。つい先日まで存在していた、「農民は苗字を持たない」、「身分間の結婚などご法度」といった数多くの既存の概念からの転換が、何の混乱もなく受け入れらたとは考えにくい。

それでは、新たに拠り所となる“別の何か”とは何であったのか?目標とするものは極めてはっきりとしていた。それは西洋諸国である。“富国強兵”、“殖産興業”といったスローガンが意味していたことはすなわち、西洋に追いつくという意志であった。

そうした国家の政策もあり、技術や制度はもちろん、文化の点で大いに“西洋”を取り込んでゆく。文明開化の名の下に、洋風であればなんでももてはやされる風潮が日本を取り巻いていく。明治11年に建設された札幌時計台、明治16年建設された鹿鳴館などは西洋建築の代表である。

明治5年とは、そのような時代であった。この時代に“洋靴を作る”という選択をした大塚岩次郎―その背景はどのようなものであったのか。
第二章では、大塚岩次郎という人物がどのような想いを持って靴作りの道へと進んでいったのか、様々な視点から語られる彼の人物像に注目してゆく。


「日本人の足に合う靴を」

大塚製靴の初代大塚岩次郎が生涯信念としていた事である。西洋のものであれば何でも歓迎され、表面的な文化の輸入が行われていた明治という時代に、あくまで“日本人のために”という事にこだわった。 それは、大塚岩次郎が“靴とは何か”“履き物とは何か”ということの、本質を理解していたからに他ならない。 何よりも、大塚岩次郎は靴を愛していた。

岩次郎が東京市芝区露月町24番地に大塚商店を開いたのは、明治5年2月4日。岩次郎がまだ14歳の時のことであった。
その頃の靴は全て輸入の革が使われていたが、生地のままであったため、靴の作り手自身が染色しなければならず、肉体的にも苦しい労働であった。 さらに、創業間も無い頃は、当然固定した顧客を獲得することもできず、経営的にも厳しいものがあった。

にも関わらず、岩次郎は大塚商店の運営と平行して、伊勢勝三という人物によって作られた「伊勢勝製靴場」という国内で最高の技術を持っていたと伝えられている製靴場に通い、技術の研鑽に努めたという。


明治13年、彼が22歳の時のエピソードに、次のようなものがある。

ある紳士が靴を修繕するために大塚商店に立ち寄った時、そのイギリス製の見事に作られた靴に感動した岩次郎は、“同じ靴を新たに作って納めるから、その靴を分解させて欲しい”と懇願した。

イギリスから持ち帰った大切な靴だからという理由でその紳士は岩次郎の懇願を拒絶したが、諦め切れない岩次郎が再三にわたって懇願した結果、その熱意にほだされてついに承諾してくれた。 岩次郎はその靴を分解して納得いくまで調べ上げた上、新品を作って数日後に届けたが、その紳士はイギリス製にも優る立派な出来栄えだと感服し、この若い靴工の腕前を絶賛したと言う。

この紳士は、当時宮内省からヨーロッパに派遣され、帰国したばかりの長崎省吾氏であった。これが縁となり、明治15年、岩次郎は明治天皇の御靴製作を拝命し、宮内省御用達の看板を掲げるに至る。

初めて会った客に対して貴重な持ち物の分解を頼み込むなど、常識外れの申し出に違いない。しかしそこには、経営者としての意図とは異なった、“靴の作り手”としての情熱が確かに存在していた。

岩次郎はその生涯を、企業経営者としてではなく、職人として意義づけた。彼の使っていた名刺に記されている、「靴師」という肩書きに、その全てが表れている。


大塚商店が創業して間もないころ、靴を取り巻く環境は決して希望が
持てるようなものではなかった。明治5年に官中での正装を洋装とする
旨が公布されたものの、それは極めて少数の需要に過ぎず、安定した
経営が行える見込みは低かったと言える。

そのような状況の中で、初代大塚岩次郎は黙々とその技術の研鑽に
励んだと言う。経営者としてではなく作り手としての情熱が、製靴を商売
とする道を進む気持ちを支えていたのであろう。

そうした中で、第二章でも紹介した、のちに宮内省調度頭となる長崎
省吾氏との出会いがおこる。彼が惚れ込んだのは、岩次郎の技術に
ついてのみならず、その靴作りに対する姿勢であった。だからこそ、
明治天皇の御靴製作を岩次郎に任せたのであろう。こうして明治15年、
創業から10年にして、明治天皇の御靴製作を拝命し、宮内省御用達の
看板を掲げることとなる。

そして大塚の進路を決定付けたもう一つの出来事が、後に総理大臣にも
なる、海軍大将山本権兵衛との出会いである。大塚商店が位置していた
芝露月町は、当時陸海軍の軍装関係の店が密集していた。そのため
陸海軍将校はこの界隈によく出入りしていたのであるが、山本権兵衛も
その一人であった。山本権兵衛は個人的に大塚商店の顧客となり、大塚
岩次郎とはかなりの親密な関係であったと伝えられている。中尉時代
(明治12年)には、よく店を訪れ靴を求めたということだ。

この信頼関係が元となり、明治17年より施工された水兵用半靴の製造
規格に伴い、最初に指名発注をうけたのが大塚商店であった。その後
大塚商店は、海軍のみならず陸軍からも軍靴の発注依頼を受ける事
となり、その後発行されたカタログには「宮内省、陸軍省、海軍省御用」
の表記がなされる。
   


明治十年代後半から明治二十年前後―いわゆる“鹿鳴館時代”
と呼ばれた時代がある。

明治十六年、イギリス人の建築家コンドルの設計によって建てられた
二階建てレンガ造りの鹿鳴館は、時の外務大臣井上馨の社交外交の
根拠地となり、家族・顕官・外国使臣などが出入りし、日本における
国際社交の頂点を形成していた。

鹿鳴館は、表面的にでも西洋化を急ぐ日本の「文明開化」のシンボル
であり、したがって当時の“ハイカラ”の最先端を行くファッションは、
鹿鳴館に集う人々によって創られていたと言える。

大塚製靴の祖初代大塚岩次郎は、それとは異質の、表面的にでは
なく本質的に「文明開化」―“日本人のための”革新を体現しようと
するものであった。にも関わらず、同時に、この最先端をゆく鹿鳴館
の社会とも密接に結びついていた。

宮内省御用を承る大塚商店は、天皇の御靴を製作するだけではなく、
天皇の近辺に生活することができた華族・顕官からも多くの注文
を受けていたのである。

例えば、外務省を例にとれば、直任官に任ぜられたり、あるいは、
外国に赴任したりするようになって、初めて大塚商店で個人の
注文靴を作る事ができる「身分」になったと言われていた事は、
世間周知の事実であった。

なぜこうした人々が、大塚の靴を求めたのであろうか。次回は、
その根底にある、大塚の“技術”に対する信頼について語って
ゆきたい。



江戸の末期から明治の初期にかけて、西洋との技術力を認識
すべく、西洋で開催される万国博覧会に日本からの使節が送
られるようになった。そこで使節が目の当たりにしたのは、西洋
との圧倒的格差である。

殖産興業を急ぐ明治政府は、博覧会が産業の育成に役立つ事
を認め、明治十年に上野公園にて第一回国内勧業博を開催
するに至る。

その第一回国内勧業博において、“日本人にとって履き良い靴を”
という信念のもと作り上げた自らの靴を出品した大塚岩次郎は、
若干19歳にして、賞状ならびに花紋賞牌を授与する。しかし
岩次郎の作品は、国内で評価されるだけに留まらなかった。


明治十七年、万国衛生博覧会(ロンドン)賞状及び銀牌授与。
明治二十二年、万国博覧会(パリ)賞状及び銀牌授与。
明治二十五年、万国博覧会(シカゴ)賞状及び金牌授与。


西洋にルーツを持つ革靴において、後発であるはずの日本の
技術はこの時、確かにオリジナルを超えた。

大塚岩次郎が、当時鹿鳴館に集っていたような華族・顕官からの
注文を多く受けていたのは、天皇の御料靴の製作や人間関係のみに
よっていたのではない。

それは、かつて長崎省吾に見出されたのと同じ理由、すなわち
“日本人にとって履き良い靴を”という信念からもたらされる研究
熱心と、その結果である技術を獲得していたからに他ならない。
   


明治二十五年という年は、日本の製靴業の歴史において
一つの明確な時代区分をなしている。この時期から、日本に
於ける靴の生産量が飛躍的に大きくなってゆくのだ。この時期
に靴の輸出が始まっているという事からも、その様子が見て
とれる。

そして製靴業の急激な発達は、明治二十七・八年の日清戦争
において、その頂点に達した。この戦争において、陸海軍は
様々な軍需品を民間業者に大量に発注した。軍靴もその例外
ではなかった。

軍靴の大量発注を受けた民間業者は、ただちに量産体制を整え、
陸海軍の指定する納入期日と納入規格を守る事に努力した。

日清戦争とそれ以後の軍需の激増は、皮革産業を大きく変える
事になった。その一つは製革業と製靴業の分離であり、そして
もう一つが、製靴システムにおける手工制から機械制への移行
である。多くの製靴店は、日清戦争で得た利益をもとにして
新たに工場を設立し設備を拡大・近代化して、機械制へと移行
していった。

しかしながらこの時、大塚商店は大量に軍靴を受注する大規模
メーカーであったにも関わらず、機械性生産システムへの転換
という方向を採らなかった。

その理由は、まず第一に大塚岩次郎が手縫い技術に対する飽く
なき執念が、単純作業の繰り返しである機械製靴を許さなかっ
たという事。そしてその背景にあったのは、手縫いによって
大量の軍靴受注をまかなう事が可能であるだけの多数の靴工が、
この時すでに育成されていたという事実がある。

   


日清戦争、そしてそれに続く日露戦争は歴史学的に、
様々な解釈が存在する。

けれども私たちのような製靴という実業を生業とする者に
とって重要なのは、その当時の人々が如何に考え、如何に
生きていたかと言うことである。そうした事実の積み重ねに
よって、今の私達の文化が形成されていると考えているからだ。


日露戦争は、それまで日本が経験したことのない大規模な
戦争であった。軍当局は、明治二十八年の三国干渉以後、
急速な軍備拡張に踏み切り、陸海軍の整備強化を図ってきた。

ところが開戦後、こうした机上のプランはたちまち崩壊することになる。

ひとたび開戦となると、多くの兵員が投入され、膨大な軍需物資
が消耗されることになる。このため軍靴も、補給が間に合わず、
兵士達は草履や厚底の足袋を履いて出陣するという状態で
あったという。

したがって、陸軍省・海軍省はさらに大量の軍需品生産を
民間業者に発注しなくてはいけない事態になったのである。
この時、軍は大塚製靴などの大メーカーに、軍靴だけでなく
背嚢・バンドなどの革製品を大量に受注し、どの工場でも
靴工が交代で徹夜作業を行ったという。

当時の靴職人達は、常時安定した仕事が出来ていたわけでは
なかった。この戦時の需要は、そうした職人達の貴重な技術を
後世に伝える媒体になったとも言える。


この大きな出来事にともなって、大量生産体制を整えるために、
靴業界では合併などの再編の動きが表れ始めた。多くの民間
メーカーが合併、もしくは大手の下請け工場として、大量生産の
仕組みの中に組み込まれていくことになる。

そうした中で、大塚岩次郎の人柄と製靴に対する厳格な姿勢を
したって大塚商店に集う職人も多くいた。多くのメーカーが効率
を最重視する体制を目指していったのに対して、大塚は
「履き良い靴」というクオリティに対するポリシーだけは譲ら
なかった。その出来事はある意味で、コンセプト、目指すものを
異にする靴工たちの再編とも言えるかもしれない。
 

時は流れ、大正3年、欧州の諸国間に第一次世界大戦が勃発した。
わが国も日英同盟の条約に基づき、兵力の出動、兵器その他物資の
膨大な輸出を行うこととなった。

同時に靴業界も当時の盟邦露国に供給するため靴製造に多忙を
極めていたのである。大塚商店の受注は大正7年にロシアへの
輸出が終わるまで、総計18万足を数えるにいたるとされている。

当時ロシアからの大量の軍靴を受注して、大塚商店も多数の
臨時職工を雇い入れることになったが、これを契機として 徒弟制度の
近代化が図られた。


徒弟制度の下ではどうしても徒弟として使用し得る人数を制限せざるを
得ない。しかも、製靴の合間に技術を仕込むのであるから必然的に
その修行年限は長くなり、習得する技術内容も昔ながらの 勘にたよる
断片的知識の寄せ集めにすぎなくなる。

そうしてこの近代的な大量生産方式をとらざるをえない状況において、
何らかの教育体制の改善措置が必要となったのである。
それが学校形式による集団的職業教育であった。


この教育体制によって、多数の青年達に同時に体系的な技術を
教え込むことができるようになったのである。これは当時において
先進的な技術教育形態であった。

ロシアからの大量受注によって、一時靴工を雇い入れなくてはならない
状況が生まれたが、職工の数には限界がある。そのため内部的に
職人を鍛え上げていく体制を作る以外に、大塚の培う技術を保ちつつ
この製靴環境に対応するすべはなかったのである。

この大塚商店における大塚靴工養成所は、まさに近代的社内職業訓練所
であった。そのような訓練所を設置したということは、常に「履き良い」靴を
作るため技術に生きる、大塚岩次郎の製靴業に対する姿勢が反映されて
いるのである。


大正10年(1921年)、大塚商店は一つの大きな変革期を迎えていた。
当時欧米において進んでいたいわゆる製靴機械に対する研究に
積極的に取り組むようになったのである。 海軍省経理局から近く
軍靴製造の規格を機械製靴に変更する旨の通知があり、 機械製靴
による海軍軍靴生産に備え、当時世界最大の機械製靴会社であった
アメリカ某社よりグッドイヤー式製靴機械一式を導入したのである。

時は第一次世界大戦が終了した後の恐慌による、皮革・製靴業界の
一時的な混乱を乗り越え、景気が回復の兆しを見せ始めた時であった。

当時まで製靴機械の主流であったのは、アリアンズ式と呼ばれる
製靴機械であった。これは低廉な実用靴向きの製法であった。
これに比べてグッドイヤー式製靴機械は複縫方式であり、
履き心地・体裁・耐久力・修繕に耐えうるなど手工製靴とほとんど
異ならない構造の靴を製造することができるものであった。

グッドイヤー式製靴機械は1875年(明治8年)にアメリカのチャールズ
グッドイヤー二世によって完成された機械である。日本にも明治後期頃
紹介されてはいたが、当時は機械製靴自体がまったく普及しておらず、
また、手工製による注文靴の方が機械製よりも秀でているという
機械製靴に対する一般的な嫌悪感から軍靴生産以外の個人注文靴
部門では機械製靴の普及はきわめて遅れていたのである。

時は経ち、この頃大塚商店は工場全体としてグッドイヤー式製靴機械
による一貫した全生産体制を整えた。このようなグッドイヤー式製靴機械
による生産体制が完備されたのは、当時極東において大塚商店が初めて
であった。

時代が要請したから採用したのではない。常に履き良い靴を作ることを
念頭に置き靴作りをしてきた中、それを実現できる技術であると確信した
からこそ、どこよりも早く導入するに至ったのである。そして現在においても、 この製法は大塚製靴が履き良い靴を作る中で欠かすことのできない
ものになっているのである。



大正12年9月1日、日本全体を揺るがす大事件が起こった。
関東大震災である。
これは関東地方全般に空前の被害をもたらしたが、大塚商店にとっても目をそむきたくなるような事態を引き起こしたのである。

地震直後、大塚商店の煉瓦造り三階立ての店舗は瞬時にして崩壊し、 また、地震のあとに燃え広がった火事によって新しく作られた工場が跡形も無く焼失してしまっていた。

一昨年前に身を削って導入したグッドイヤー式製靴機械設備の一切が、烏有に帰してしまったのである。また、当時大塚が製造していた軍靴は、地震の直後の大火事の中、決死の思いで土蔵に格納していたのであったが、こちらも全焼してしまっていた。

貴重な人命を失い、創業したばかりの機械製靴工場の一切を灰にしてしまったことは、筆舌に尽くしがたい大きな痛手であったが、受注した軍靴は期日までに納入しなければならなかった。そのためには一日も早い生産再開が不可欠だったのである。ただちに焼跡の整理に取り掛かり、製靴材料、工員を集めて、再び手工製による軍靴の製造に着手したのである。

震災によって多大な被害を受けた大塚商店であったが、生産を復興するためには多くの資金が必要であった。この現状を見て合併による共同会社設立など提案してくる企業などもいたが、大塚岩次郎はこれを即座に辞退している。

おそらくこの震災の打撃から立ち上がることができるという自信と展望がなければ、この合併申し入れを即座に拒否することはできなかっただろう。そこには確かな自信の裏づけがあったのである。海軍から年次製造契約を受けていたという技術への確信、製造のための土地の保有、またその二つに支えられた銀行からの信用などがあった。またグッドイヤー式製靴機械の購入先であるアメリカ某社の極東代理店の権利など、このときすでに国際的信頼も獲得していたのである。

実際震災復興計画は順調に進んでいた。大正13年、2月には新工場が完成し、また新たに発注したグッドイヤー式製靴機械一式も同年末に整えたのである。当時、震災を機会とした手工製一辺倒への回帰の気配はゼロではなかった。ただ、大正年代に確立した産業資本のイニシアティブによる、手工制マニュファクチャから工場制機械生産への移行という、資本制生産様式の発展段階を貫徹する法則性は無視しえないことを大塚商店の経営スタッフは十分に認識していた。大塚商店として新たな始まりを迎えていたのである。

大正14年6月13日、初代大塚岩次郎はその生涯を閉じた。
折しも大塚商店の第二幕が本格化する期に訪れたこの出来事は、大塚商店の歴史にとってきわめて象徴的であった。

手工制時代に奮迅の指導をし、次の機械制時代の青写真を設計して軌道に乗せた後、その役割を終えた。岩次郎の意思はたしかに引き継がれたのである。