◆日本市場において、徐々に人気を高めつつあるのがシングルモルトウイスキーです。
蒸留所の個性やこだわりがそのまま味わいに反映したシングルモルトはオリジナリティーを求めるお客様からの支持を確実に得ています。熟成にはシェリー樽を用いる本格派シングル モルトです。





グレンファークラスは1836年創業の今では数少なくなった家族経営による蒸留所の一つです。グレンファークラスとはゲール語で「緑の草の生い茂る谷間」を意味します。堂々と聳え立つベンリネス山の麓にある蒸留所は、長い年月をかけて浄化された雪解け水が滾々と湧き出る恵まれた立地にあります。


グレンファークラスのこだわりは創業当時からの直火焚き蒸留と熟成にシェリー樽を用いる点にあります。スペイサイド最大を誇るポットスティルはオリジナルの復刻版を使用しています。これは約10年に及ぶ実験の結果、スチーム加熱と直火焚きでは最終的な味わいが変わってしまうという結論を得たからです。また、ファーストからサードフィルまで様々なシェリー樽を使い分け、理想とする味わいを引き出すことも創業当時から変わらないこだわりです。
しかし、古き習慣にとらわれるばかりでなく近代的な蒸留機器をうまく取り入れている点もグレンファークラスの特徴といえます。発酵槽をステンレス製にし、ポットスティルを増設する等、伝統と革新が完全に融合し現在のグレンファークラスがあります。


グレンファークラスはあくまでシングルモルト(単一の蒸留所でモルトのみを使用したウイスキー)にこだわっています。独自の個性を大切にし、ブレンダーにカスク売りは一切行っていません。全ての商品にグレンファークラスの名をつけ、最低でも10年は熟成させたウイスキーから30年もの、ヴィンテージ、樽出し等、幅広いレンジを持つ故に「グレンファー・マジック」と呼ばれ世界中で愛飲され続けています。

===グレンファークラスJohn L. S. Grantより========
 2006年の初めに、グレンファークラスはウイスキーマガジン社より“Distiller of the Year” というウイスキー蒸留メーカーとしては大変名誉ある賞を頂きました。  “堅実で、常に高い品質を提供し、独立した家族経営による伝統に基づいた由緒ある起源を基盤として徹底して本物を造る”という生産者の核となる価値を弊社に認められるということであります。6代にわたり、私の家族(又、グレンファークラスに働く誰もが)一人一人がその製品の品質には誇りを持っており、今回この事がウイスキー産業によってその価値を認められたということは大変な喜びであります。  この誇りと、歴史を伝承していくという気持ちを、今回、数量限定という形ではありますが、The Family Casks として所蔵品の販売を行うことになりました。

 このコメントは私の父、ジョージ・S・グラントに捧げるものでありますが、我々が今、皆様から羨ましがられるほどの地位を得ることが出来たのも彼の高い見識によるものであります。と言いますのは、彼は1960年代に、この業界が合併及び整理統合が進み、ブレンド・ウイスキーではその将来の保証はないことを予見しておりました。実際に、彼はより多くのGlenfarclas Single Highland Malt Scotchの樽を作ることを決意しました。結果として、今日、1952年以降毎年樽詰されたGlenfarclas を所有することになりました。他の蒸留所でこれほどまで毎年一定した数量の樽を所有しているところはないと思います。

 この所蔵樽の中から、ウイスキーの質、色を確認し最高のボトルを作ることに注力いたしました。この作業には二つの理由があります。  一つは、我々にはこの作業が可能であること、そしてもう一つはこの作業は我々にとって大変な楽しみの一つであるからです。  完成した時点で、これはGlenfarclas の一大垂直試飲となるはずです。皆様には、新しい発見とそして大いに楽しんで飲んで頂きたいと思っております。又、ウイスキーと一緒に楽しんで頂きたいとの思いから、もう一つのコレクションを作成しました。それが “グレンファークラスと我が家族の歴史”であります。


【 The Early Years 初期の時代】
我々にはグレンファークラスがいつ頃から蒸留され始めたのか正確には判っておりません。皆様もご存じの通りですが、税金逃れのためウイスキーの蒸留は隠れて行われておりました。今日の多くの蒸留所は元々、非合法の場所で蒸留されており、そのままその場所が今の蒸留所となっております。 我々の蒸留所は1836年に合法的に設立されましたが、1791年の絵を見る限り(表紙裏面)グレンファークラスの蒸留はそれ以前から行われていたと思われます。この時期には、ハイランドの農場では限定的に蒸留が行われておりました。

我々の場合は、バリンダロッホの所有地を借りて、レクレリック農場で蒸留を行っておりました。我が家族がこのグレンファークラスに係ったのは私の高祖父のジョン・グラントが1865年にレクレリックの借地権を取得した時でした。彼はこの時その当時ではかなりの金額である511ポンド19シリングでこの蒸留所を購入しました。彼は当時、農業従事者であり、彼の興味はその土地にある土地、農場施設、機械そして製粉所に注がれておりました。現在も、勿論主たる重要な家業の一つは蒸留所の運営でありますが、1980年代後半まで引き続き農場経営も行っておりました。


【The Spirit of Independence 独立】
1890年代はウイスキー取引が飛躍して伸びた時期であり、私の祖父は兄弟で蒸留所に更に資金を投入すべくリースにあるブレンダーのパッチソン・エルダーと共同経営を行うことにしました。しかし、この事は長くは続きませんでした。パッチソンは市場戦略には優れていましたが経理面に弱い人でした。結局、1898年にこの会社は倒産することになり祖父は多大な借金を抱え込むこととなりました。このとき彼は、二度と外部の人との共同経営はやめようと決心しました。この時、グレンファークラスに独立精神が生まれました。

20世紀の半ばまでは我々の歴史の中では、易しい時期ではありませんでした。パッチソンの倒産による返済が続き、第一次世界大戦の間は、蒸留が制限されていました。又、アメリカ合衆国での禁酒法の影響は大きいものでした。一方、明るいニュースといえば、バリンダロッホの所有地の借地期限が1930年で終了となり、私の祖父はその土地をそのままグレンファークラスとして土地を購入。この時に借地人としての立場は終りました。

1948年に、私の祖父は蒸留所の100周年記念のお祝いを行うことにしました。100周年は過ぎていたことが後でわかりましたが、戦時中には家族でのお祝いが出来る環境ではなくちょうどいい機会ではありました。他には一度だけ、それは祖父母、ジョージとジャネットの銀婚式のお祝いくらいでした。しかし、悲しいことにジョージは1949年に他界してしまいました。それは私の両親の結婚式の直前のことでありました。


【Red Doors 赤い扉】
1950年代はグレンファークラスにとってはいい時期でありました。この年には1880年に施行されたアルコール条令が廃止となり、糖化作業と蒸留を同時に行うことが出来るようになり生産性の飛躍に繋がり生産は倍増しました。(元々、税徴収官の便宜で禁止していたもの)更に大麦の割当緩和からこれも生産が著しく伸びることとなりました。従って、恐らく我々の古いストックはこの時期のものであると思われます。

増産体制が整い、グレンファークラスでは1955年に更に4つの蒸留に係る施設を完成しました。しかしながら、ウイスキー産業全体が同じ状況にあり、休業中の蒸留所が次々と生産を再開し、生産は更に増え、価格は下落していくことになりました。1952年には市場価格はオリジナルプルーフガロン当たり16シリングとなり1960年代半ばまでこの価格が戻ることはありませんでした。

私の幼い時の最初の記憶は、1954年、私が3歳でアベラワーにある幼稚園の“プリンセス・マーガレット・ローズ”(ドーワンズホテル)から帰ってみると、グレンファークラスの倉庫の入り口の扉がひどく目立つ明るい赤色で塗ってありました。蒸留所ではこの色が人気で今でもそのままの色が使われています。1958年にはもっと革命的なことがありました。モーリーン・グレイグという女性スタッフが始めて我々のメンバーに加わりました。


【Boom Times 隆盛期】
1950年代はグレンファークラスにとってはいい時代ではありましたが、その後の10年は更に良くなるように思えました。1960年代の初めには生産量が1952年の倍となっており、2基の蒸留設備の増設を行いました。増産の結果、我々には更に多くの水の供給が必要となり1961年にはベンリネスから我々の水の供給基地であるグリーン・バーンへ新しい水路を増設しました。

販売も非常に好調で、供給が需要に追いつかず、父は1961年に例外的に新しい生産分のグレンファークラスのブレンダーへの販売を数量割当としました。グレンファークラスの最初の輸出は1962年でこれはスイス向けでした。その後1963年にはアメリカ合衆国そして西ドイツには1964年に始めて輸出が行われました。私はその頃、勉学を進めロレットスクールからエルギンにあるゴードンストーン高校に進んでいました。(ゴードンストーンはチャールズ皇太子も就学したプライベートスクールです)

この時期に、父はグラント・ボンディング会社(保税取引を行う会社)を設立しグレンファークラスの輸出を保税で行えるよう準備をしました。しかし、税務局から最終的にエルギンの倉庫に許可が下りたのは1965年でした。その直後、父はこのボンディング会社の株の半分をブローカーでありブレンダーでもあるゴードン・マックフェイル社に売ることになります。

その頃は時代が変りつつあり、スペイサイドの鉄道が閉鎖となりこれで石炭、大麦の輸送全てが汽車から道路を通じての輸送に変わった時代であります。悲しいことも起こりました。1965年には43年間も勤務した蒸留所のマネージャーであったウイリアム・スツゥラッスディーが逝去した年でもあります。社員スタッフの忠実な貢献は何事にも換え難いものです。

1966年の12月26日にはアネット・ツゥイーディーが事務員として入社しました。彼女の、祖父、父、叔父、甥の皆さんがここで働きそれを継いで彼女が当社に参加してくれています。実際には、彼女は勤続40年を終え、今、定年退職の時期を迎えております。

これら社員全員が、1968年の不安を記憶しています。Distillers Company(現在のDiageo)が1969年からグレンファークラスを彼らのブレンディングからはずすと通告してきました。幸いにも、彼らはそれを実行しました。

このことにより私の父は即刻自社のシングルモルトのストックを更に増やすように指示をしました。グレンファークラスのシングルモルトが我々の将来であると確信していたからです。若し彼のこの予見がなければ今回のThe Family Casks の発売はあり得ませんでした。ですから、私の父、ジョージ・S・グラントに“乾杯”してください。


【White Gold 白いゴールド】
グレンファークラスの需要の増加は更に続き、1970年の10月には、記録的な数字となり1週間に仕込みを15回まで行うようになりました。しかし、1972年は非常に雨が少なくその年の夏は閑散な“静かな夏”となり、フル生産ができたのは11月になってからとなりました。これとは逆に1973年の彼の日記には春遅く積雪があり、彼はこれを“白いゴールド”と記しています。

供給を凌ぐ大きな重要に対応するため、その当時、父の最優先課題は増産体制を確立することにありました。その意味では、シーバス社との1973年の契約交渉は非常に難しいものでありました。同社はグレンファークラスにとっては重要取引先の一つというだけでなく、20年間継続的にウイスキーの提供を優先的に行ってきた会社であったからです。

その後、父は麦芽蔵置所や麦芽乾燥塔(キルン)を新しく仕込み部屋、樽蔵置所、製粉所に変え更に新しい蒸留器を加え、1975年にはこの計画が終了し、生産体制が倍増することになりました。需要が増えていく一方、1970年代の初期のウイスキー産業は不安定な状況が続き又、急激なインフレで混沌とした時代でありました。まず、1972年には鉱山組合のストライキにより電力不足が発生、一ヶ月の生産停止を余儀なくされました。

しかし、1974年に起こった運送業者のストライキの時は何とか生産を継続することができました。蒸留所の入り口ゲートのピケにも拘らず裏口から自社の車を使って麦芽や酵母の配送を行いました。現地のドライバーの一人は、このストライキに不満を持ち、6ヶ月間の約束でグレンファークラスで働くことを約束してくれました。彼、ジョック・ムンロはその後そのままグレンファークラスで働き、35年の勤続を終え、2005年に定年退職となりました。

そして、この急激なインフレは原料価格のコストに大きな影響を与えることになりました。原料の大麦の価格は1973年のトン当たり57ポンドから1974年にはこれが114ポンドと倍となりました。燃料価格も同様に高騰し、父はこの時1973年に蒸留用の燃料を石炭から液化ガスに変更しました。この時の石炭の価格は一年のうちにトン当たり22.5ポンドから48.5ポンドに急騰しているという記録が残っています。

1973年のロイヤル・ハイランドショーで、グレンファークラス農場の“パーシー”がアバディーン・アンガス(同地区の牛の品評会)で最優秀賞を獲得しました。この時、父はグラント家は元々の農業経営に専念したほうがいいのではないか、という思いを描いたのではないかと思っています。

1973年の7月1日には、我が国で初めてビジター・センターを設立しました。興味を持たれているゲストの方々をお迎えするのは当然のことで我々の喜びでもあります。その数は年々増加し、生産ラインのスタッフもこれを放置することは出来なくなりました。我々は、お客さまを迎える専門のチームを結成し販売をも手掛けるようになりました。

ビジター・センターを設立することは、控え目に言ってもかなり異例なこととなりました。内装には豪華客船「オーストラリアの皇后」の士官室の廃材を父がオークションで購入しこれを使用しています。訪問されるお客様が「船室」で試飲をされるのは特別な経験となります。

最初の月には1000人の訪問客がありました。私はと言えば、1974年から三年ずつ、スコットランド銀行とティーチャーズ蒸留所で働いた後、この会社に参加することになりました。これはこれでよかったのですが、最初は私自身何をしたらいいのか全くわかりませんでした。最終的に、父と相談し、又、会社での勉強をした後、私自身は自社ブランドの販売に従事するということになりました。後でわかりましたが、この事は大変な仕事であると。

先ず私はマーラー・ベッセ社をフランスの販売代理店に指定しました。同社は今でも我々の代理店であります。その後、グラント家の家系には新しい枝が伸び、1976年8月17日には6代目となる私の長男、ジョージ・ステュアートが誕生します。又、後に首相となるマーガレット・サッチャー女史が1977年の5月に訪問され、昼食とグレンファークラスを楽しんで頂きました。それと、彼が不謹慎ということではないのですが、ジョン・ミラーが我が社に樽職人として入社したのは1978年で、まだ飲酒年齢に達してはいませんでした。その15年後に彼は蒸留所のマネージャーに昇格していきました。


【Swimming Upstream 上流に向かって】
グレンファークラスにとって次の10年は先ず家族の結婚式から始まりました。1980年の7月19日には妹のジャッキーがスチュアート・ルンドと結婚しました。 私はこれを祝うためジャッキーが生まれたその日に樽詰された樽からボトリングを手配しました。ジャッキーもスチュアートも25歳で25年物は我々のストックの中でも特別なものであり、男たちは大いに楽しんで全てを飲みつくしました。

1981年にはグレンファークラスの販売量は20%も増加しました。いくつかのお祝いごともありましたが次に起こってくる悲劇の連続により全て台無しになってしまいました。特に、生産部門のマネージャー、ダグラス・マクドナルドが釣りをしていて事故に会い亡くなったことは大きなショックでした。その少し前、1981年の5月にはNO.1のウオッシュ・タンクが壊れたこと、そして、それから一週間後には、NO.2の蒸留蔵置所が火事で損傷を受けてしまいました。そして、1982年の5月には製粉所に爆発が起き大きな被害にあってしまいました。又、この時期には暗いニュースが続きます。1984年にはDistillery社が11か所のモルトの蒸留所と2か所のボトリング工場を閉鎖しました。

私の父は、この状況を見て、この苦境に恐れることなく、このまま閉鎖が続けば5・6年後には必ずウイスキーが不足になることを予測し、彼は“上流に向かって泳ぎ出そう”と増産の指示を出しました。1984年には保税でのボトリングを独自で行うためJ&G Grant社はPeter・J・Russel社と共に合弁会社を設立しBroxburnボトリング社を買収しました。しかし、新しい会社の設立と同時に閉鎖をせざるをえない会社もありました。バリンダロッホにトーモア、アベラワーそしてグレンリベットと共同で設立した飼料会社は、元々、モルトの粕、蒸留粕を加工して家畜の飼料用の使用目的に設立したものですが、燃料のコストの高騰と、一方、飼料の原料価格の下落という状況から経済的に存続不可能な状態となりました。

1986年には蒸留所の免許を取得後150周年を迎えて、特約店の方々、社員、そして引退した人たちや友人を交えて踊りと歌の大パーティを開催しました。この時を記念して、事務所のマネージャー、フィリップ・ハッチソンと私で1960年代の樽の中から7樽を選び出し限定記念ボトルを発売しました。私は家族の歴史を150年以上にわたり振り返ることができます。実際、1670年まで遡ることが可能です。どの資料を見ても、家族は農業に従事してきたことは確かです。従って、1988年にEECの度重なる介入により我々は長年続けてきたレクレリックでの農場経営を断念せざるを得ませんでした。

そして、我々は最終的に蒸留所に専念することになりました。その直後、我々の会社はある大手グループにより買収の対象となり大変な時期を迎えることになります。勿論我々はこれを阻止しました。この戦いの反動かも知れませんが、逆に会社が活気づき輸出は30%増加することになりました。


【The Water of Life 命の水】
1990年という年は本当に雨が少なく、雨を渇望した年でありました。冗談と分かっていながら、我社は新しい倉庫の開場式に英国放送(BBC)の気象予報士のイアン・マッカスキル氏を招きました。何が起こったと思いますか? 我々の思いが通じたのか、彼が工場を立ち去るとすぐに物凄い大雨に見舞われました。我々はこの年に二つの新しい倉庫を建設しましたが、販売のほうはと言えば芳しくありませんでした。ブレンダーの会社は注文を減らし、更に加えて、湾岸戦争が起こり、英国及び米国での同時不況もあり、我々の商品は行き場を失っていました。

前にも述べたように、ジョン・ミラーがグレンファークラスに入社したのは1978年で、彼が未成年であった時です。1993年にはグレンファークラスの生産の全工程にかかかわり蒸留所のマネージャーにふさわしい経験と実績をあげておりました。彼がDistillery Managerとして初めて生産に携わったのは1994年でありました。この年には又非常に興味深い事件が起こりました。当時、販売担当取締役であったマルコム・グリーンウッドのもとに米国のイリノイ州の紳士から一通の手紙を受け取ったのです。そこには、彼の父が1930年代に1ケースのグレンファークラスを受け取ったものがそのままそっくりそこにあるが興味があるかという内容でした。

我々は会社内部で種々検討した結果、もし本当であれば現存するグレンファークラスで最も古い一箱となるという事に気がつきました。イリノイに向けて出発です。英国航空の厚いもてなしを受け帰りの便では何とファースト・クラスのシートをこの箱のために用意して頂き帰国の途につきました。今日、その箱はスペイサイドの秘密の場所に密封されたまま眠っております。

1994年の年末には当時の財務大臣であったケニス・クラークがグレンファークラスを訪れ、彼自身の樽を作ってくれました。時期が来たら、The Family Casks の一つにこれも加えたいと思っております。

グレンファークラスでは多くの事が変わり、そして多くの事が何も変わらず時が過ぎております。例えば、蒸留メーカーの一番の悩み、それは今、今後の10年のために何を生産すべきか、という問いです。私の父はいつも簡単な答えで傍にいる私を導いてくれておりました。必要な需要は10年後にやってくる、今必要と思ったものを今日生産してはならない。今日生産しても差し支えないものだけを作りなさいと。

私は父の方針に沿って、そして先駆者の人々が残したものを、素晴らしい樽の中で熟成した商品を作り上げ、これらを伝統的作法に従って貯蔵すること、この一点に専心しております。未来を予測することはチャレンジであります。私が分かっていることはグレンファークラスが素晴らしい状態にあるということです。50,000樽が倉庫で皆さんに喜んでもらうべく眠っています。グレンファークラスに働く全員の品質に対する熱い思いが2006年の”Distiller of the Year” に選ばれたことは誇りであり、販売もこれに応えて過去最高の伸びを示しております。

=========================