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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
青山・麻布は和傘の産地だった



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          裏長屋の浪人は、傘張りの技能者           
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 時代劇の映画やテレビ映像で、裏長屋住まいの貧しい浪人者(武士)が、内職
 に傘張りをしているシーンとして見かけられる。落ちぶれた元武士が生活費
 を稼ぐため、やむなく不慣れな傘張り作業に携わっている・・・

 そんな同情心が誘発されそうである。しかし、傘張り内職は浪人者にとって、
 町人から同情を寄せられるような不承不承(ふしょうぶしょう)な事柄なので
 あろうか。



 江戸時代の各藩では、領内産業振興の一端として、家臣たちに傘張りを奨励
 する例が少なくなかった。今は裏長屋住まいの浪人ものも、武士身分であっ
 た頃は、傘張りに励んでいたかも知れないのである。

 自らのキャリアを今の市井(しせい)生活に役立てることになり、同情を受け
 るよりもむしろ、傘職人としての誇りを内心に秘めていたに違いない。民間
 の商工業者だけでなく、各藩士たちの傘張り内職も、少なからず傘(和傘)産
 業の発展振興に寄与していた。



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             各藩が傘作りを奨励した              
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 日本書紀によれば、日本に紙漉きの技術が伝えられたのは推古18年( 610)の
 こととされるが、実際にはもっと早かったのかもしれない。また、漆は既に
 縄文時代から日用品等の素材強化や防湿効果用として利用されていたことが
 出土品によって確かめられている。



 紙漉き技術は、平安時代にかけて高度に発展する。この紙と漆が合体すれば、
 防水効果のある紙張りの傘が誕生することは不思議ではない。

 平安は宇多天皇の寛平年間(889〜897)には、紙張りの雨傘が大阪近辺で生産
 されていたようである。室町時代になると『唐傘座(からかさざ)』という傘
 の職人組合が出来るほどになっている。



 主な産地として興隆するのは、難波・高津が1570年代(秀吉の頃)以前から。
 福岡が文録年間(1592〜96)頃から、そして────



 ■伊賀…戦国時代(1600年前後)、藤堂高虎が領内の産業として傘作りを奨励

 ■紀州…元和元年(1615)、徳川頼宣が赴任し、傘工を入国させて奨励。

 ■広島…同じ頃、安芸藩では紀州より傘工を移住させ、藩士の内職に番傘作
  りをさせている。

 ■岐阜…寛永12年(1635)播州明石城から加納城主へ赴任した松平丹波守光重
  傘屋金右衛門なる者を伴い、家中の便に供した。また宝暦6年(1756)に
  加納藩第11代藩主 伊賀守尚陳が、下級武士の内職として傘作りを奨励。


  細工物に秀でた家臣の山本紋兵衛が、その技術を傘に応用して改良。これ
  が「山本傘」として知られ、明治まで続いた。彼は藩士の技術指導もした。

  文政・安政年間(1818〜59)頃は、領内だけで50万本ほどが生産され、江戸
  でも「加納傘」の名を広めた。

 ■高岡…寛永年間(1698〜43)、前田利長が傘の生産を奨励した。
 
 元禄年間(1698〜1703)には、加賀 新潟 熊本などでも傘の生産が盛んになる。
  


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  江戸の御家人が傘張りを内職にするようになったのは、正徳の頃(1711〜15)
 といわれる。中でも青山地区が有名で、御家人の手内職は、傘細工が八分、
 春慶塗りなどの塗り仕事が二分の割合(幕末)だったそうだ。御家人は最下級
 でも70坪の敷地を有するため、傘の乾燥仕上げに、その広さが活用された。



 元文元年(1736)に、青山浅河町(現・北青山2丁目辺)の家主 源兵衛並びに、
 同萬右衛門の二人が代表となり、他に江戸中の30名が賛同し、町奉行所へ
 「傘屋挑灯屋組合」の設立願いを届けでている。

 傘と挑灯は、共に竹骨に紙を張ることで共通性があり、両者兼業も行われた。

 また、文政12年(1829)の『御府内備考』には、浅河町の辺りを、俗に「傘町」
 と呼んでいるとの記述がある。



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          和傘の製造単価16銭、西洋傘88銭
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 明治7年(1874)に出た『大和道しるべ』東京の部に「青山から麻布の辺にか
 けて傘を作るもの甚だ多し。故に空地ある所には、これを乾かすさま、秋雨
 雨後の菌(きのこ)の如し・・・」とあり、依然とした此地が傘作りで注目を
 集めていたようだ。

 明治5年(1872)の『東京府志料』によると、府下で和傘作りをしてている地
 区は百余あり、その合計は22万6千本余である。そのうち青山地区が78600本
 で全体の約35%を占める。


 
 隣接の原宿、麻布、飯倉を加えると15万9千本余りとなり、実にこの地域だ
 けでほぼ7割の生産数量になる。全体での平均単価は16銭余。

 同年、東京で西洋傘・蝙蝠傘が17,470本製造されており、平均単価は西洋傘
 が88銭、蝙蝠傘が85銭。また5ダースが輸入され、その単価は68銭。
 東京の人口は80万人であった。明治4年の名古屋では、1円で米2斗9升、
 酒1斗を買うことができた。







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