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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
遊女が用いた傘 (その2)




(イ)遊女の好むもの・・・・・


 後白河法皇が編したといわれる『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(嘉応元年・
1169年成る)、「遊女の好むもの」として雑芸(ぞうげい)・鼓・小端舟・(おおが
さ)・翳(かざし)・艫取女(ともとりめ)・・・・・などが別記されている。

 雑芸・鼓は宴席などに侍して歌や踊りを披露する遊女たちの職能に不可欠なもので
あり、小端舟は河を運航する船に近づいて客引きをするために乗るもの、艫取女は遊
女の手助けをする女性であり、いずれも遊女には必要とされるもの。それらと共に
翳(団扇の柄を長くした形状のもの。類似した権威の象徴と考えられていた)が挙げ
られている。

 それは長柄傘であり、公家、僧侶、武家など一部上流階級に属する者に使用が限定
されており、「大方の俗人はささるまじく候」とされ、江戸時代になってからも「軽
き輩、長柄の傘可ならず」と禁止令(享保3年)が出たほどである。


 その長柄傘が「遊女の好むもの」として、(つまり使用が許されている)認められ
ているのはナゼであろうか。遊女の社会的な地位が公家や武家などと同等であったの
であろうか。

 中世に新しい光を当てた歴史学者の網野善彦氏は、当時の遊女が和歌を詠み、歌舞
管弦に「好色の道」という芸能(職能)も含めた教養豊かな女性で、「社会的地位は
高かった」としている。彼女らは、その職能技術を介して、天皇や貴族たちとも交際
し得るだけの身分であった。



 (ロ)遊女と貴族との関係  『万葉集』巻六に、大宰府の師として赴任していた大伴旅人(おおとものたびびと) 卿が大納言に任ぜられ、京へと帰る折(天平2年・730年12月)、見送りに立った府吏 (役人)たちに混じって、児島という遊行女婦(遊女)がおり、次の歌を詠んだとし てある。   おほ(王)ならばかもかもせむと恐(かしこ)みと    振りたき袖をしのびてあるかも   大和道(やまとじ)は雲隠れたり然れども   わが振る袖はなめしと思ふな  この送別の歌から、旅人(たびと)と児島(こじま)の間柄が浅からぬものだった ことが推測される(2首目の「なめし」は無礼である・ぶしつけである の意)。  宇多上皇(在位887〜896)のお目に留まった江口の遊女白女(しらめ)は、丹後守 大江玉淵の娘であったというから、貴族の家柄から身を転じた者もあったようである。  『扶桑略記』(治安3年・1023年)10月28日条には、時の権勢たる御堂関白道長が 江口の遊女小観音を召し、「米百石を給ふ」とある。奈良時代の奴婢の価は、一般に 奴が平均稲千束、婢が同八百束 稲一束は米五升の価であったというから、米百石の 玉代とは大変なものである。  また、『公卿補佐』の承久2年(1220年)条に、藤信能なる者が正四位下に任ぜられ、 その母親が江口の遊女慈氏であると、さらに嘉禎3年(1237年)には、藤兼高が従三位 を叙ぜられ、同じくその母親が江口の遊女木姫と記されてある。  このような事例からして、当時の遊女たちの社会的な位置が推察される。律令的な 階位ではないものの、現実の状態からして、貴族等に準ずるような身分として暗黙的 に認知されていたのであろう。従って、遊女たちはその象徴として長柄傘を携行し、 同時にそれを彼女らの高標として利用したのであろう。
 (ハ) 螺鈿(らでん)・蒔絵(まきえ)で飾った遊女の傘  遊女が長柄傘を使用していたことは『新猿楽記』(藤原明衡の漢文随筆。康平年間 1058〜65に成る)にも「身を上下の倫(ともがら)に任す」とある。また、『栄花物 語』(応徳2年・1086年前後20年ほとに成る)巻三十一には、関白道長の娘「彰子」 であり、一条天皇の皇后にして後一条・後朱雀両天皇の母でもある上東門院が、長元 4年(1031年)9月25日から住吉詣に出向いた折、船で江口にさしかかった時の様子が次 のように叙述されている。  ―――えぐちといふ所になりて、あそび(遊女)ども、かさに月をいだし、らでん まきえ さまざまに、おとらじまけじとしてまいりたり。  上東門院一行の船団が江口に近づくと、遊女たちが小端舟を漕いで我れ勝ちにと妍 を競うように近寄ってきて呼びかける。「かさに月をいだし」は、飾り立てた様を言 ったものであろう。「らでんまきえ」は、螺鈿(らでん)・蒔絵(まきえ)の柄や調 度に贅を尽していることを表現したものであろう。  前述した道長の玉代からしても、遊女たちが、着物も含めて身の回りを飾り立て得 たことが想像されるし、同時にそのことが貴族たちの宴席に侍るステイタスともなっ ていたことであろう。  古墳時代の王墓から、蓋(きぬがさ)の立ち飾りや笠(傘)型埴輪が権威を象徴す るものとして出土しているが、長柄傘が遊女たちの地位の証として、その延長線上に あり、それは後の江戸・吉原にまで連綿と続くことになる。
  (ニ) 傘は遊女の目印であった  遊女は、容色の衰えた先輩の遊女(梁塵秘抄に言う艫取女)、遊女の見習いといえ る雛妓を従え、この三者が一団となって営業をしてたようである。  『更科日記』(菅原孝標女・康平2年(1059年)成る)に、 ―――足柄山の麓にやどりたるに月もなく、暗き夜のやみにまどふ様なるに、    あそび(遊女)三人いづくよりともなく出できたり。    五十ばかりなるひとり、二十半ばなる、一四五なるとあり。    庵(いほり)の前にからかさ(傘)をささせてすへたり」 とある。  遊女三人の一行は、50歳位、20歳前後そして14〜15歳ほどの組合せで、夜に向かう 薄暗がりの中で、遊女であることを示す長柄傘を粗末な家の前に立てて、一夜の客を 誘ふべく営業に取りかかったところである。  江口の遊女たちのきらびやかさに比べ、地方の宿駅の寂しさが感じられるが、誇り 高い象徴としての傘は役目を担っている。  上文の後段には、遊女たちの歌を謡う芸が語られ、その姿が色白で上品なことから、 いずれはそれなりの格ある所へ仕えたのであろうかと、「ひとびとあはれがるに・・」 と述べられている。  改めて言うなら、遊女たちの長柄傘は、彼女らが天皇や上流階級たちと席を伴にす る(同列に並ぶ)ことから得た信認状であり、プライドの象徴でもあり、かつ、それ 故に遊女業を示すところのトレードマークであり、広告宣伝媒体でもあったといえよ うか。

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