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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
江戸時代の「かさ」に関する話



 ◎傘の「藩札」を発行
 今でも岐阜産の和傘が命脈を伴っており、かつては「加納傘」として有名であった。

 傘の生産地では、大阪・福岡・伊賀・紀州そして広島などが先行している。加納傘
は、寛永12年(1635)、松平丹波守光重が、播州明石城から加納城主として転封した折
に、傘屋金右衛門を伴い、家中の便をなさしめたのが始まりとされる。そして宝暦6年
(1756)、伊賀守尚陳(永井氏)が加納藩第11代藩主に着くと、下級武士の内職として
傘作りを奨励した。永井氏の家臣で山本紋兵衛なる者が細工物に優れており、その技
術を応用して傘に改良を加えた。これが「山本傘」として知られ、明治まで続いた。
文政・安政の頃(1818〜59)は、領内だけで50万本生産されたといわれる。


 文政6年(1823)、加納藩では「傘の藩札」を発行している。藩札は、財政難の諸藩
が発行した領内限りで通用する不換紙幣で、寛文元年(1661)に越前福井藩で発行した
のが最初。

 で、加納藩の傘札は、「傘1本札」「傘2本札」「轆轤2個札」などで、藩として
の統制や専売権の強化を図ったものであろう。

 明治20年代の中半以降、そして戦後のある時期まで、傘の輸出で日本の外貨獲得に
大きく貢献した歴史が想い合わされる。



   ◎祝賀能で町人へ傘のプレゼント

 大名連は、能・狂言の上演をして楽しむのがステータスの一つだった(昔の時代劇
映画では、よく能が演じられる場面が採り入れられていた)が、それには一応、将軍
の許可が必要とされ、また上演の一部は庶民(町人)に公開されたりもした。岩波講
座『能・狂言』の中に、「江戸町人能は、将軍宣下祝賀能などの表能の初日に町人約
5千人に表舞台白州での拝観を許した・・・」とある。


 さて、『大献院殿御実記』巻47の寛永18年(1641)9月9日条に、「若君降誕の慶宴を
開かれ、猿楽あり。家門並諸大名饗せらる。・・・芝居の市人へは菓子、酒、青銅(
銭一貫文)を給ふ。雨ふりければ市人等へ傘を授ける」とある。
 お世継ぎ誕生の祝宴とはいえ、一門の者から諸大名を招いての能上演と餐応、更に町
人達への接待まで、さぞかし莫大な費用であったろうに。

 文政・安政期(1821〜57)に成った松浦静山の『甲子夜話』続篇にも、同じような催
しの様子が報告されている。「御能見物に出る町八百八町、見物の者人数五千七百一
四人。・・・・・何町何十人入りと、ことはり行くに、その所に傘を積んで山の如し
、これを一人柄づつ取りて御門入す」。「ある時に雨降り出しことありしに、下され
傘をさし、庭土に立・・・・」と。


 町人能の見物に、江戸の殆どの町(八百八町)から集まってきた5千余の人々。そ
の人たちに与えられる傘の山。祝儀物として供される傘の文化的意義とそのボリュー
ムを想像すると、江戸時代人のエネルギーに圧倒される。


  ◎俳諧に詠まれた傘職人
 俳諧に詠み込まれるということは、それだけ傘職業が一般的になり、親しまれてい
たことを物語るであろう。
 既に(前に)、紹介した句もあるが、萬里亭寥和撰『俳諧職人尽』(延享2年(1745)
板)より―――

  五月雨の雲かたづくや日傘張     寥和

  傘張や采の花にまでより日向     夏人

  あぶら引傘の匂ひや草いきれ     鬼髪

  傘張の眠り胡蝶のやどりかな     守武

  傘張の蛇の目をまはす師走哉     水戸・活鱗

  傘張やかかりも錦ふゆもみじ     常洲真壁・秀鶴

  かさはりはすぼめて仕廻ふ時雨哉   小田原・華瀧

  夕立や日の影盗むからかさや     文尺

  傘にひくあぶらもをのが暑哉     祇明


 早やこの時代にして、傘が生活情景の中にしっかりと位置づけられていた一端がう
かがわれる。







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