backhome

文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
◆◆◆日本の傘 (其の三)◆◆◆
日本(紙)の日傘



【鈴木氏のコメント】
  江戸時代の人々は、傘を実用性もさることながら、ファッション感覚や遊び心か
らより楽しんでいたように感じられます。
 現代人もそんな心の余裕をもって傘に接したら、雨の日につけ、晴れの日につけ、
より満足感のある生活シーンを実現できるようになるかもしれません・・・・・・



  江戸期の文政8年(1825)頃までに成ったとされる加藤史尾庵の『我衣』に、「日傘は 古来より有りとみゆ」とある。一般に傘の起源が「太陽の光を避けて影をつくる用具 (sunshade)」、即ち日傘であったことは確かである。日本列島にあっても、4世紀末 頃には、蓋・繖(きぬがさ)といわれる傘が、権威の象徴として用いられていたことが 、考古学的に確認されている。 きぬがさは、絹などの織物を張ったもので、王など権力者の頭上に掲げられたが、 実用性よりは専ら儀式用であった。 ところで、紙を漉く技術は、高句麗の僧曇徴(ドンチョウ)が来日して610年頃に伝え られたとされる。そして、平安時代の宇多天皇の頃(在887〜896)には、紙を張った傘 が作られるようになり、「からかさ」として雨を防ぐ実用面から次第に広まっていき、 鎌倉・室町時代になると、公家や武家・社寺などの上流階級だけでなく、庶民間で も使用されるようになる。傘の民主化では、日本がはるかに世界に先駆けていたこと になる。 さて、雨用の「からかさ」に対する「日傘」について、年代頃に主な動きをピック アップして、その変遷を辿ってみよう。  (1)祭礼用の子供日傘 安土桃山時代の文禄年間(1592〜95)、祭礼の時に子供が用いる日傘が盛んとなる。 柄が長くて黒漆塗り、藤の段巻きを施す。傘の周り、爪先(露先)に鈴、絹布、護袋など を付けて飾り、敬神を表わした。一般的なものは、五色の彩りをしたものが流行。  (2)三都で絵日傘が流行 江戸時代に入り、四代将軍徳川家綱から五代将軍綱吉の時代に当たる延宝・天和・ 貞享年間(1673〜88)は、京都・大阪・江戸の三都で大人用絵日傘の生産が行われ、婦 女子間に絵日傘が流行。10年間ほど、絵日傘の全盛期となる。傘は周り3尺3寸ほど で、花鳥や唐草などの模様を描いた。 前出の『我衣』には、「小児日傘も天和頃(1681〜84)より下る。地(江戸)にても作 る。五色の彩色したるもの也。青紙のあつらへ也。藍紙にて一色に染たるも有り。近 来、大人もさす。僧医者の類ひ、上方にては前々より有由」とある。 寛保の頃(1741〜44 八代将軍綱吉)の日傘は、みな青紙張りで、子供たちが山王、 八幡、明神、天王などの祭礼に練り歩く時にさすのは、みな丹染の一色。子供の頭上 に差しかけるので、柄は長く、周辺(露先)に鈴や絹を付け、内側が絵守りや袋などを つけた。(『我衣』より)  (3)日傘の使用禁止 寛延2年(1749)、京都で大人の日傘使用禁示の触れが出る。翌年に再び旅禁の令。 特に男子の日傘使用が厳しく禁じられたが、子供だけは許された。 宝歴の頃(1751〜61)、竹の骨を半ば辺まで二つに割った趣好の「菊形日傘」あるい は「松葉形日傘」が出る。 大飢饉に見舞われた天明期(1781〜88)に続く寛政年間(1789〜1800)に、江戸町奉行 水野備前守が、「唐土青羅傘、蓋(きぬがさ)と言って青絹青紙を以って張傘あり。凡 人のせまじ事なり。近頃大いに流行す。婦女子髪故と思ふに、医者、坊主は何事ぞや 」と苦言を呈している。この頃から、江戸でも日傘の製造・使用が制限された。 (この頃、黄表紙や洒落本などの出版制限が行われた。) 文化・文政期(1804〜30)、老中松平定信が財政再建のため緊縮節約を奨励、札差を 制圧する棄損令を発し、奢侈を禁止したりした。このため、日傘も姿を消すような状 況となったが、一方で技術が進歩。骨竹の皮を表に残して、身部との間を割き、その 間に紙を挟んだ「外皮日傘」が作られている。 天保年間(1830〜40)、大阪でも京都、江戸と同様に日傘の製造・使用が禁止された。 特に男子日傘の禁令。   (4)日傘の復活と流行 弘化年間(1844〜47)に至り、ようやく日傘が市中に現れるようになる。最初に禁じら れてから、およそ京都で100年、江戸で55年、大阪は14年ぶりで再現したことになる。 京阪で「雨天傘」(晴雨両用)が出る。これは鼠色紙に僅かに荏油を引き(柿渋引き だった)、形は日傘だが雨にも使えた。日傘は傘の勾配が浅く、雨傘は深い。  ※荏油=荏胡麻(えごま)の種子からとった油。 嘉永年間(1848〜53)に入ると、弘化期に復活した日傘は、それまで禁止されてきた反動 のように流行し、男子間にも用いられた。なお、嘉永6年(1853)は、ペリーが黒船で初来 航した年である。 安政年間(1854〜59)、大阪で粗末な「番ゝ(ババ)チャリ絵日傘」が多量に生産された。 「番」は、番傘や番茶のように粗末な意。「チャリ」は小さい意。 万延年間(1860〜61)、雨傘のように大きな紺一色張日傘が作られ、婦女間に用いられる 骨数46本で黒塗り骨。 片や男子用として「番ゝ五面日傘」があった。骨数45本で紺一色張り。小形で少し粗末。 婦人用よりはやや太め。 何やら、日傘のユニセックス化現象・・・・? 元治年間(1864〜65)、四角、六角、八角等の変形ものが京阪地区で使用された。 裏骨の日傘も出る。骨竹の皮を裏にして作ったもの。多く煤竹を使用。傘を広げて内 側から見ると、普通は親骨の身部が白なのに対し、赤褐色、黒褐色を呈して目に触れ 易い。 絹張り日傘も作られた。日傘の松葉骨を雨傘に利用する試作品も出たが、あまり効 を奏さなかった。 間もなく明治の世(1868〜)となり、紙張り日傘は西洋渡来の布張り日傘(パラソル) に取って替わられる。パラソル(洋傘)は、文明開化期の象徴、モードの先端として大 いに流行した。その土壌は、日本人の永い生活分化史の中で培われてきたものであっ た。

B A C K