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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
◆◆◆業界初のファッションライター◆◆◆




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洋傘タイムス 昭和35年3月1日掲載
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洋傘をおしゃれに
 新風を巻き起す大内順子さん
  業界にファッションライター出現!


洋傘をアクセサリーとして実用品から、持っていても楽しいおしゃれ品にしようとい
う、日本で初めてのファッションライター大内順子さんを洋傘・ショールの専属にし
たマルコ産業株式会社では別項の如くその第一回発表会「洋傘ショー」を催すことに
なったが、それに先立って、同社でこのほど洋傘、服飾、百貨店、その他業界専門紙
十数社と大内順子さんとの記者会見が行われ、大内さんから洋傘をおしゃれ品にする
抱負をきいてみた。いままで実用品一点張りで作られてきた洋傘が、ハンドバッグや
手袋や靴のように服装にマッチさせ、おしゃれ品の仲間入りをするとしたら、それは
洋傘界は革命にも等しい。新風を吹き込まれることになるから同氏の今後の活躍は大
いに期待してよいことになろう。


持ってて楽しい傘に
    大内順子さん談

日本もだんだおしゃれの国になってきましたが、傘だけが取り残されているのは、よ
い傘がないからです。まだ番傘を借りて返さないという風習が流れているんですね。
ロンドンあたりでは価値を持っているんです。傘はさしているときよりも持っている
時間が長い。折柄持っているんですから若い層、中年層の傘を実用品からおしゃれに
したい、つまり服飾品の一つに。ハンドバッグと一緒に持ったおしゃれ(しゃれた手
袋を示し)こうして手袋を私は持っていますが、これはアクセサリーとして持ってい
るんですが、ハンドバッグと一緒に持っていておしゃれになっているように傘をお
しゃれにデザインします。プレゼントにしたい傘、受けてうれしい傘にしたい。六月
の雨季に入って傘・傘・傘とファッションショーに傘を扱ってみたいと思って探して
みても傘がない。たまたまあったと思うとイタリア製、フランス製であったり、
ショールでもそうでした。雨傘、日傘も靴、ハンドバッグのようにおしゃれに持って
いても楽しい傘にしたい。とその抱負はつきない。


手元のデザイン 真先変えたい
    ― 記者との一問一答 ―


なお、日本でもはじめてといわれる、”洋傘ショー”および今後のデザインについて
の考え方を具体的にきいてみた。すなわち記者との一問一答は次のとおり。

記者 
 今度のショーには何種類位出す予定ですか

大内
 大体十種位考えています。色とかガラ、持ち方、バラエティを持たせます。服飾の
うちでも一番顔に近いところですが折りたたみをくちゃくちゃと持っている格好はよ
くありませんネ、あれをよくする。

記者
 アメリカへ日本から洋傘が沢山輸出されてますが、アメリカで洋傘が売れるのは、
服装にマッチした色の傘を持つからだそうですが―

大内
 ええ、私もそれを考えています。今レインコートでも二枚以上持っています。服装
にマッチさせたおしゃれの傘も二本も三本も持つように

記者
 サラリーガールについてどう考えていますか
大内
 購買層として大きいですから考えたいと思います
記者
 貴方のデザインで洋傘の骨の形や手元の形が変わることになりますか
大内
 もちろん変わります。手元は真先に変えたいと思っています。


大内順子さん略歴
 昭和9年 上海に生れ、昭和30年宮内裕氏と結婚、昭和32年青山学院卒業、在
学中ファッションモデルとして活躍。卒業と同時に日本ではじめてのファッションラ
イターに転向。
昭和33年エジプト政府に招かれカイロ国際博に出席。
東京チャームスクール講師。趣味、モダン・ジャズ、著書「おしゃれの夢」がある。








大内順子さんの自著より (本名 不詳 昭和59年頃?)

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事故からどのくらい経ったときだろう。マルコ産業という会社から、傘についてアイ
ディアを出してくれるようにという要請がきた。傘が雨さえしのげばいいという実用
のものでしかなかった時代のこと。傘のおしゃれなど考えるものはだれもいなかった
ころのことだが、私は、もっと長い傘や細い傘や、かっこいい傘があってもいいはず
だと思っていたところだったで、一もニもなく引き受けた。
 
そのころ、傘といえば、黒い厚地の木綿のものから、ようやく脱皮しようとしている
ところだった。”雨さえしのげればいい”からいくらか進歩しつつあったものの、傘
さえきれいならいい、という考え方で、洋服や雨靴とのコーディネートなど無関係に
花柄や幾何学模様など、何色も使った品だけがあふれていた。洋服に調和する無地も
のなど皆無。ボタンひとつで開くワンタッチ式のものはすでに登場し、操作の面では
ずいぶん進歩がみられたのに、美的な面、おしゃれな面のおくれはひどいものだっ
た。
 私は長くあたため続けたいた考えを入れ、あくまで洋服との調和、全体をおしゃれ
に見せる、シンプルでいてファッショナブルな、さまざまな形の傘を試作してもらっ
た。
 
柄(え)と石突を思いきり長くし、同じ素材、同じ色にしてコーディネイトすると
か、わざわざ木を削って柄を作ったり、また、真白な傘にしたり、そのどれもがはじ
めてのことだった。今ではあたりまえの柄の細く長くスマートな傘が、このときまで
日本になかったのだ。
 大人の傘ばかりでなく、子供の傘についても考えた。むき出しになっていた骨の先
に、丸いプラスチックをつけて骨を包んだが、ただそれだけのことで、安全性が数倍
にも高まった。
骨の先でもし目を突いたら、というのは私自身が傷ついた人間であることと無縁では
ないだろう。


特許を取ったわけではないけれど、私がいちばん最初に考えて商品化したのだと自信
を持っていえる。今では子供の傘にはごく当然のこととして、骨の先には丸いプラス
ティックのポッチがついてくるし、石突も丸く太く、安全性が考慮されているものだ
が・・・・・

こうしたいくつものアイディアが出て、試作されたところで、傘のショーをしたらど
うだろう、という考えが私の頭の中を横切った。
傘のファッションショーである。レインコートや洋服、ブーツとコーディネイトさせ
れば、洋服のショーに負けないステージが更正できるはずである。もちろん、これま
で傘のショーなんて聞いたことも見たこともなかったけれど。
 この案は、マルコ産業の大賛成を得て、実現することとなった。企画構成から解説
まですべて私がひとりでやる。

 レインコートと傘とのコーディネイト、エレガントな傘、スポーティでカジュアル
な傘、大人っぽい傘、かわいらしい傘、男女ペア、親子ペアの傘・・・・・。
解説もそれまでのファッションショーのように、「しとしと降りそぼる雨の街、傘の
美しさがひときわ映え・・・・」的な美辞麗句の抽象的なものでなく、私の口調で機
能性やおしゃれ性を説明した。


 会場には雑誌、新聞の記者やカメラマンも大勢来てくれた。史上初の傘のショーと
いうことのほかに、私が事故にあったことも、多少の話題性を持ったのかもしれな
い。翌日の新聞には、「不死鳥のようによみがえった大内順子の傘のショー」と取り
上げてくれたところもあり、”日本ではじめての傘のショー”は成功し、メーカーも
まずまず喜んでくれた。有楽町「そごう」には”大内順子の傘”コーナーができ、若
い人たちの人気を集めた。

おしゃれに敏感な女性たちは、自分の意志で自分に似合う、自分の好きな洋服を選
び、その服に合う靴やバッグをコーディネイトして、個性を自分のものにしつつあっ
たこのころ、さらに傘がコーディネイトの一環に加わったのである。スマートな傘を
持つ女性は、足どりさえ軽やかになった。
 傘のショーのあとを追うように、私の処女出版『おしゃれの夢』が平凡出版から出
た。今はもう絶版になったこの本は、用紙が淡い青と緑と紫色なら刷り色も同じ三色
で、なんともおしゃれな、贅沢なものであった。上梓と同時に出版記念会を開いてく
ださる方があり、新橋のマヌエラというクラブに大勢のお客さまが集まった。いろん
な方が来て下さったけれど、美輪明宏さんの笑顔は、とくにうれしかった。いっしょ
にファッションショーの地方めぐりをした日が一瞬、楽しくよみがえってきた。
 復帰というのだろうか。再起というのだろうか。傘のショーと本の出版とで、私は
また仕事の中へもどっていった。









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