ずっと無借金経営でやってきたが、
花博の頃に初めて銀行から借入れをした。
傘屋とはいえ、古い商品を軒先に飾るわけにはいかない。
売上が減りつつあっても、仕入はつねにおこさなければならないからだ。
「宮武さん、もうこのままではあきまへんで」
じり貧になって、損益分岐点の月商1500万円を割り、
1000万円すら切るようになった頃、
経理を見ていただいていた税理士の先生は、
末期症状の患者の家族に医者が宣告するような調子でこう言った。
たたむことになる2年ほど前のことだ。
だが、このときは、まだなんとかなる、と危機感は乏しかった。
傘だけだからいけないのだ、と思い、
帽子やセーターやバッグなどを仕入れて陳列してみたが、
やはり「傘屋は傘屋」である。
目利きのない人間が何をしたところでうまくいくはずがなかった。
傘の品揃えを替えてもみた。
子供用のコーナーをつくったり、
紳士用のコーナーを広げてみたりといろいろやってみても
思うような結果は出なかった。
そうこうするうちに銀行の借入れは枠いっぱいになった。
金利の負担もばかにならなくなり、
母の保険や株式、貯蓄までも運転資金に回さざるを得なくなった。
それも急場しのぎに過ぎず、また続くはずもない。
働けば働くほど、借金が増えていく。
一体何のために働いているのか、わからなくなった。
「もう生きた心地がせん」
もともと気丈で陽気だった母が嘆く。
事ここに至って、
私は店を閉めることを決意したのだった。
母や妻は賛成してくれた。
頑として抵抗したのは父である…
「わしゃ絶対に反対や、心斎橋を離れとうない」
そう言って、最後まで納得してはくれなかった。
職業や業種を変えることより何より、
心斎橋を離れることが哀しかったのだろう。
しかし、実際に店を経営していたのは母と私であり、
最後は事後承諾のような形になってしまったが、
父はあえて口をはさまなくなった。
だが、辞めると決意してからも一体どうやっていくのか、
決め手はなかった。
メーカーの方に頭を下げて
「傘の目利きには自信がある。地方回りでも百貨店への派遣でも
何でもするから雇ってくれ」と恥を忍んで頼んだこともあった。
もちろん気心の知れた人に内密にだが。
しかし不況のおり、傘業界も人を減らさざるを得ない。
当然といえば当然の話で、
色好い返事は誰もしてくれなかった
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 心斎橋にない心斎橋みや竹…なぜ
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