心斎橋みや竹 我が再生の記

心斎橋みや竹 kasaya.com 我が再生の記 【第三話】母の嘆き、父の叫び
傘屋の和ちゃん、我が再生の記「そして老舗は甦った・・・」

- 第 3 話 - 母の嘆き、父の叫び






 ずっと無借金経営でやってきたが、
花博の頃に初めて銀行から借入れをした。

傘屋とはいえ、古い商品を軒先に飾るわけにはいかない。
売上が減りつつあっても、仕入はつねにおこさなければならないからだ。 


 「宮武さん、もうこのままではあきまへんで」 

 じり貧になって、損益分岐点の月商1500万円を割り、
   1000万円すら切るようになった頃、
  経理を見ていただいていた税理士の先生は、
  末期症状の患者の家族に医者が宣告するような調子でこう言った。


たたむことになる2年ほど前のことだ。 
だが、このときは、まだなんとかなる、と危機感は乏しかった。

傘だけだからいけないのだ、と思い、
帽子やセーターやバッグなどを仕入れて陳列してみたが、
やはり「傘屋は傘屋」である。

目利きのない人間が何をしたところでうまくいくはずがなかった。 


 傘の品揃えを替えてもみた。
  子供用のコーナーをつくったり、
  紳士用のコーナーを広げてみたりといろいろやってみても
  思うような結果は出なかった。 


そうこうするうちに銀行の借入れは枠いっぱいになった。
金利の負担もばかにならなくなり、
母の保険や株式、貯蓄までも運転資金に回さざるを得なくなった。


それも急場しのぎに過ぎず、また続くはずもない。
働けば働くほど、借金が増えていく。
一体何のために働いているのか、わからなくなった。  


「もう生きた心地がせん」
 もともと気丈で陽気だった母が嘆く。


事ここに至って、
私は店を閉めることを決意したのだった。

母や妻は賛成してくれた。
頑として抵抗したのは父である…


  「わしゃ絶対に反対や、心斎橋を離れとうない」 
   そう言って、最後まで納得してはくれなかった。


職業や業種を変えることより何より、
心斎橋を離れることが哀しかったのだろう。

しかし、実際に店を経営していたのは母と私であり、
最後は事後承諾のような形になってしまったが、
父はあえて口をはさまなくなった。 


 だが、辞めると決意してからも一体どうやっていくのか、
  決め手はなかった。 


メーカーの方に頭を下げて
「傘の目利きには自信がある。地方回りでも百貨店への派遣でも
何でもするから雇ってくれ」と恥を忍んで頼んだこともあった。
もちろん気心の知れた人に内密にだが。


しかし不況のおり、傘業界も人を減らさざるを得ない。
当然といえば当然の話で、
色好い返事は誰もしてくれなかった




∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 心斎橋にない心斎橋みや竹…なぜ

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