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心太売り |
夏の風物詩、「ところてん」はいつ頃から私たちの食卓にあったのでしょうか? 710年、平城京にはじめて海藻を売る海藻店(にぎめだな)と、ところてんを売る心太店(こころぶとてん)ができています。 続いて、コンブ、ワカメ、ノリ、ミルなどの加工食品(主として海藻の佃煮に類するもの)を売る海藻店(もはてん)が出現します。 しかし、当時は上流階級の食べ物で一般庶民にはほど遠いものだったようです。 時経て、室町末期となっても奈良や京にはその店はありました。 その頃には、朝野をあげて海藻を食用としています。 長禄3年の記録によれば、奈良には紺座、塩座などとともに、心太座があり、 同じ頃、京の心太売の歌が『七十一番職人尽歌合』に二首載せられています。 盂蘭盆の半の秋の夜もすがら月にすますや我が心てい (当時は心太は「こころてい」・「こころぶと」と二通りに呼ばれていた) 我ながら及ばぬ恋と知りながら思い寄りける心ぶとさよ うら盆のときなどは、精進料理用として心太の需要がとくに多くなるので、 夜もすがら売っていたのでしょう。 夏の暑気をいやす食べ物としても喜ばれ、納涼茶屋でも売られていました。 京の東洞院に弥吉という者があり、洛北の糺すの森(ただすのもり)に茶屋を 出していました。 あるときそこを数人の公卿が通りかかり、その中の一人が、 ところてん突き出したる今宵かな と詠むと、他の一人がすぐに、 ただすをかけてかも川の水 と下の句をつけました。 これが評判となって弥吉の茶屋には洛中洛外から客が集まったといいます。 「ただす」はトコロテンにかける「蓼酢」(たです)をもじったもので、この当時からテン突きで突き出し、水で冷やし、辛味をきかせて二杯酢にして食べ ていたのです。 |