江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後の上屋敷)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀によって完成した江戸を代表する日本庭園です。
光圀は作庭に際し、光圀が学問の師と仰いだ明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

小石川後楽園Koishikawa_kourakuen

 園門や瓦など至る所に水戸徳川家の裏家紋である六葉葵を見ることができます。入口にある沼津垣は、昔から沼津周辺で浜の潮風を防ぐために用いられてきた垣根でした。箱根竹と呼ばれる篠竹を16本ずつ束ねて、2つの束を超える二手越しの網代編みになっています。

小石川後楽園Koishikawa_kourakuen

 園に入ってすぐには、樹齢推定60年の枝垂桜、左手には西湖の堤があります。この石堤は中国の名勝地西湖を模して造られたもので、本園以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなっています。
 そのまま歩いて行き大堰川、渡月橋を経て、田園風景を眺めながら休憩所を向かう左側に円月橋が見えてきます。水面に映る形が満月のように見えることからつけられた名称です。

梅林、花菖蒲田を過ぎ唐門跡から大泉水に向かうあたりから、「延べ段」と呼ばれる石組みの階段が始まります。切り出して成型した岩(切石)と自然のままの形の小石(玉石)を組み合わせて敷石にしたもので、江戸時代の日本にはなかった、中国風の石畳です。

 庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、本庭園の特徴として日本各地の景勝を模した景観が巧みに表現され、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配した中国趣味豊かなものにもなっています。また光圀の儒学思想の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
 後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮とここの二つだけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけです。

小石川後楽園Koishikawa_kourakuen