茶花としての椿の歴史
       日本の文化をささえた椿



                                         2021年2月5日

1、椿の花が茶と深くかかわったのは、おそらくはこの鎌倉時代ではと考えられます。

禅宗文化が鎌倉時代に中国よりもたらせ、京の都、鎌倉と禅宗寺院が建立されたのでした。

そして禅宗寺院とともに禅文化が中国より渡来がされ、それらの中には今日文化財となっている中国工芸品がたくさん含まれていたことだったと思われます。そして茶道の源流の元となった「闘茶」が文化としてこの時代伝わり、茶の栽培と唐物と呼ばれた絵画、墨蹟(ぼくせき)、花瓶、香炉などを飾り、観賞しながら、闘茶を楽しみ、和歌や連歌などを詠んだりしたとのこと。
その流行は禅宗寺院だけではなく、貴族や武士階級の世界にひろまったようです。
おそらくは花瓶には季節の花を生けられたのでは。冬の季節には椿の花が生けられたことは想像をするまでもないことかと考えれます。

2、室町時代には日明貿易が栄え、室町幕府には唐物奉行が置かれ、輸入された唐物の目ききをし、飾り方を考案したようです。床の間が作られたのはこの頃かと思われます。
つまり唐物を飾る、いい変えれば演出する舞台であったのです。
足利義満の時代の北山文化の時代、闘茶は書院の茶、大名茶として広がり、大広間には当時の椿「妙蓮寺」が飾られたことは『余の花は みな末寺なり 妙蓮寺』と連歌師宗祇が詠んだと伝えられ、当時の最先端の流行椿であったことがわかります。

3、室町時代後期には足利義政による東山文化を迎えるのでした。その銀閣寺には東宮堂があり「同仁斎」と呼ばれる書院造の書斎と茶室を兼ねた4畳半茶室の発祥の地とされています。
おそらくはこの時代の茶花としては「太郎冠者」京都では後の名の有楽椿がもてはやされたことだったと思われます。元祖侘助椿の小輪のワビスケツバキが、その後のわび茶を千利休によって大成させるには、必要不可欠な冬の茶花であったことだと思われます。

4、太郎冠者(有楽椿)と侘助

(1) 太郎冠者(有楽)
近年学術的にDNA鑑定され、中国原産のピタール椿とヤブツバキとの交雑種であることが判りました。中国大陸には元々、日本のヤブツバキの自生があるとされ、更には室町時代には、日本からの輸出品としてヤブツバキが中国へ渡っているようです。
我国には各地で唐椿が見られますが、ピタール椿は定着しなかったところから、交配は中国で行われたのではと考えられます。そしてその交配はその当時中国に渡ったヨーロッパ人だったのでは?
当時中国からの唐物といわれる輸入品は先端技術品。そしてそこへ椿の最新品種である太郎冠者が茶の湯の侘茶の全盛期を迎えようとした時代、異国の椿として大変貴重な茶花であったことは考えるまでもないことだったのでは。

(2) 侘助(胡蝶侘助)
ア. やはりDNA鑑定の結果、太郎冠者(有楽)とヤブツバキとの交配、つまり「もどし交配」であることがわかりました。
加藤清正が朝鮮より持ち帰ったとの伝説は、その当時朝鮮半島に太郎冠者が伝わっていないことには生まれるはずも無く、あくまでも伝説的な物語りではと思われます。
それではといいますと、それより以前、やはり中国で生まれたのではと思われます。
(イ) 現在国内最大の幹回わりの侘助は大徳寺総見院には信長葬儀の折に豊公お手植えとされている大木が、近年地上部が枯れたとはいえ、育っています。
(ウ) 次いて国内2番目といいますと、金閣寺本堂の庭に後水尾天皇お手植えの侘助椿が、やはり地上部は枯れたとはいえ、育っています。

以上それらを考えますと、大変貴重な椿であって、当時限られた身分しか扱えられなかったという伝説と合わせて考えましても中国渡来の輸入品種が中国伝来の茶道具とともに貴重品でなければならなかったのはうなずけるものがあります。簡単にそこらにあったのでは貴人達の満足度が満たされなかったのではと考えられます。


5)接木の歴史


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