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Herr kurt naef



『おもちゃはファンタジーを生み出すものであったり、
発達を促すものでなくてはなりません。
何通りもの形で遊ぶことができ、
美しくなければいけません。
なぜなら、子どもたちはおもちゃを通して、
様々な世界を知っていくからです。』
                   Kurt naef/クルト・ネフ



■ クルト・ネフさんのこと
1926年
スイス・フラウエンフェルトの農家に生まれる。自然に囲まれた子ども時代を過ごす。義務教育の後、家具製作の実習を受けながら、木工の専門学校に通い卒業。その後、スイスの美術工芸学校、オランダの美術学校で家具職人としての、またインテリアデザイナーとしての勉強をする。卒業後、大手の家具メーカーに勤務し、家具の製作そのものだけでなく、量産システムや組織についても学ぶ。このことは後のネフ社の経営に役立つこととなる。

1954年
バーゼルにインテリアと家具の個人会社を設立。当時としてはとても新鮮なデザインだった北欧の食器や自身がデザインした家具や木製の器などを販売するが、最初は斬新すぎて売れ行きは今ひとつ。次第に顧客も増えたがそれを受け入れたのは、建築家、デザイナーなどの職業の人たちで、その中の一人が「世の中には、美しい食器や家具があるのに、美しい玩具がない。この店にふさわしい玩具を作るべき。」とネフ氏に持ちかけたことで、ネフ氏は子どもに与える影響や、量産の事など全く考えず、自分の気持ちのおもむくままに夢中でそれを考えたという。

ネフスピール 1957年
《ネフスピール》が誕生する。当初は自分の店で販売するためだけに、作られていたが、他店より引き合いもあり、多くの人の手に渡るようになる。するとネフ氏の小さな工房は手狭になり、馬小屋を改造した工場が出来、本格的な玩具作りが始まる。《ベビーボール》《カウリング》などがここから生まれた。
ベビーボール カウリング
●ネフスピール ●ベビーボール ●カウリング


1960年

ニュールンベルグの国際玩具見本市に初出展するも、斬新過ぎて一般には受け入れられず、しばらく経営的に厳しい年月が続くが、次第に評判となっていく。

1967年
小さな工房、馬小屋を改造した工場を経て、ついにバーゼル近郊のツァイニンゲン(Zeiningen)に工場と倉庫を併設した本社ビルを建設することになる。この建設に当たっては資金に限界があったため、工場のあり方についていろいろな検討をする。その結果、全部を自社工場で作るのではなく、それぞれの部品を得意なメーカーに下請けさせ、組み立てと仕上げをネフ社が責任をもって行うという、自動車工場と同様のやり方をとることとした。
しかし、最小規模とはいえ組織が大きくなると《経営》が大きな課題となってくる。デザイナーとはいえ経営者となると、開発のコストや価格をつい考えてしまい、デザイナーとしての自由な発想にブレーキがかかってしまう。営業のために費やす時間も多くなり、一番大事な新しい玩具をデザインする時間が持てなくなる。そんな折、後にネフ社製品の代表的デザイナーとなるペア・クラーセン(Peer Clahsen)氏との出会いがあり、それをきっかけとして自身はデザイナーから、経営者へと転換してゆく。その後、クラーセン氏だけでなく、多くの世界のデザイナーが、ネフ社での製品化を目指して、作品を持ち込む方式が徐々に確立されていくことになる。

1971年
アトリエニキティキを通して、ネフ社が始めて日本の市場に登場する。
ネフ氏と日本の長く親しい関係の始まりである。

1974年
ネフ氏初来日。以後、親日家となったネフ氏は、その後7回も日本を来訪する。

1980年代
ネフ社にとって充実した実りの多い時代。多くのネフ社製品が世界中で求められるようになる。

1989年
個人会社であったネフ社を株式会社にして経営から身を引き、商品開発と販売のアドバイザーとして、期限を決めて顧問としてのみ関わることになる。それを機に、自分の経営する玩具店「PLAY ON」(現存せず)をネフ氏が長く住んでいた、ネフ社の近くの小さな街、ラインフェルデン(RHEINFELDEN)にオープンさせ、また長く離れていたデザインの仕事にも集中できるようになった。その後、1992年にはフランスに居を移し、念願の工房もつくる。

1997年
すでにネフ株式会社とは顧問契約が終了(1995年)していたが、ネフ社の強い要望でふたたび顧問としてネフ社に関与することとなる。

1999年
10年続けた「PLAY ON」を売却。お客さんと接して学んだことを生かし、もっと玩具をつくりたいと考える。

2000年
イタリアやドイツの玩具メーカーでも作品を商品化。
ムルティポ ビナリオ
●ムルティポ/独ジーナ ●ビナリオ/伊レシオ
この年の7月には芦屋市立美術博物館主催の『クルト・ネフ/デザインとおもちゃ』展が開催され、約300種、500余点が展示され期間中1万人をこえる来場者を楽しませた。
(ミニネフスピールはこの展覧会を記念して作られプログラムに加わったもの)
ミニネフスピール
●ミニネフスピール

2002年

義息エンゲラー(Hans Peter Engeler)氏を中心とした新しい経営陣を迎え、フランスからスイスへ居をもどしていたネフ氏も改めてネフ社運営に力を貸すことになる。

2003年

ネフ社がツォフィンゲン(Zofingen)に移転する。
2006年
スイスの出版社より氏の初めての美術書「Kurt Naef - The Toymaker」が発刊される。
Kurt Naef - The Toymaker
●Kurt Naef - The Toymaker
11月30日夕刻(日本時間12月1日早朝)、ツォフィンゲンの病院にて永眠。(享年80)
●ツォフィンゲンの街並み ●ネフさんの眠る共同墓地の丘
(上記年表につきましては(株)アトリエニキティキHPを参考にさせていただきました)



2004年、ネフ製品の輸入元であるアトリエニキティキの企画に他の玩具販売店の方々と一緒に参加し、ネフ社を訪問する機会を得ました。その時ネフさんとお会いしたのが私にとっては最初で最後のことでした。

その時は工場だけでなくネフ社内にあるネフさんの工房も案内していただき、「これからはハンディキャップを持つ人たちが遊べるものを作っていきたい」と構想中の新製品について熱く語ってくださいました。
その時ネフさん78歳。
経営者としてではなくひとりのデザイナーとして充実した時間を送っておられるんだろうなと感じたのを覚えています。

また、昼食をご一緒したときには私の年齢を尋ねられ、私が答えるとそれより若くみえたようで、びっくりした顔をして、突然「Passport please!」と、おどけて右手を出し冗談をおっしゃる、ユーモアたっぷりの方でもありました。
それから、その時身につけておられたあるメーカーの腕時計の話に及ぶと、「ものというのは機能だけではだめ、デザインも大事だ」と真剣なまなざしでお話しされ、おもちゃだけでなくまわりのものすべてにそういう目をむけて生活されている様子が目に浮かぶようでした。

そして帰国後、その時に撮った写真をお送りすると、わざわざ私の自宅にお礼のお手紙をくださいました。心配りも細やかな方でした。

ネフさん亡き今、これからもネフ社が子供にぜひ与えたいおもちゃを作り続けてくれることを願ってやみません。(F)



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