「ムーミン」の原作者として知られるトーベ・ヤンソンは、自身のことを生涯「画家」と名乗っていました。芸術家一家に生まれ、自身も芸術家として生きる中で、時代に翻弄されながらも、力強くまっすぐに生きたトーベ・ヤンソン。彼女の人生を知ることは、ムーミンの世界をより深く理解することに繋がります。トーベを中心に、その家族や友人、パートナーについて、ご紹介します。

ムーミンの生みの親『トーベ・ヤンソン』

トーベ・ヤンソン/Tove Jansson
(1914.8.9 - 2001.6.27)
本名:トーベ・マリカ・ヤンソン/Tove Marika Jansson
画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家

彫刻家の父ヴィクトル・ヤンソンと、挿絵画家でグラフィックデザイナーの母シグネ・ハンマルステン・ヤンソンの長女として、フィンランドのヘルシンキで誕生。ヤンソン一家は、フィンランドでは少数派のスウェーデン語系フィンランド人でした。
生まれた時から芸術に囲まれ、家そのものがアトリエという環境で育ちました。歩くよりも先に絵を描くことを覚えたとも言われています。幼い頃から絵を描くことが好きで、両親と同じアートの道を志し、画家としての活動に注力します。商業デザインや美術を学びながら、その長いキャリアをスタートさせたのはわずか15歳の時。雑誌やポストカードのイラストレーターとして収入を得ていました。その頃の仕事の中には、雑誌「ガルム」での風刺画もあり、この仕事は1枚の絵の中に風刺的要素とユーモアを落とし込む技術などが鍛えられ、のちのコミックスにも生かされていくことになりました。
やがて、長引く戦争の影響で絵を描くことが辛くなり、現実からの逃避として書いた物語が「小さなトロールと大きな洪水」でした。この物語は大成功を収め、後に「どこへ行ってもムーミンがついて回る」と本人が語るほど、ムーミンの作家として世に知られるようになりました。

年譜で辿る、トーベの人生

芸術家一家に生まれ、10代はじめ頃から芸術家を志したトーベ・ヤンソン。ムーミンを生み出したことで、芸術家の他に、小説家、漫画家と多岐にわたる肩書を得ます。仕事が大好きだったトーベの人生を辿ってみましょう。

1914年<0歳>
8月9日、彫刻家の父ヴィクトルとグラフィックアーティストの母シグネの第1子として、ヘルシンキで誕生。

1929年<15歳>
スウェーデン語の政治風刺雑誌「ガルム」にて挿絵の仕事をはじめる(〜1953年まで)

1939年<25歳>
「小さなトロールと大きな洪水」の前身となる物語の執筆を開始

1941年<27歳>
ムーミントロールの前身らしき生き物が雑誌「ユーレン」に登場

1944年<30歳>
「ガルム」誌表紙にムーミントロールが小さく登場

1945年<31歳>
ムーミン第1作「小さなトロールと大きな洪水」刊行

1946年<32歳>
ムーミン第2作「ムーミン谷の彗星」刊行

1948年<34歳>
ムーミン第3作「たのしいムーミン一家」刊行

1949年<35歳>
トーベ脚本の舞台「ムーミントロールと彗星」上演

1950年<36歳>
ムーミン第4作「ムーミンパパの思い出」刊行、「たのしいムーミン一家」がイギリスで刊行され、評判になる。

1952年<38歳>
初のムーミン絵本「それからどうなるの?」刊行

1954年<40歳>
ムーミン第5作「ムーミン谷の夏まつり」刊行、イギリスの新聞「イブニングニュース」で連載漫画開始

1957年<43歳>
ムーミン第6作「ムーミン谷の冬」刊行

1959年<45歳>
「イブニングニュース」の連載漫画が契約満了。翌年から弟ラルスが担当する(〜1975年まで)

1960年<46歳>
2作目のムーミン絵本「さびしがりやのクニット」刊行

1962年<48歳>
ムーミン第7作「ムーミン谷の仲間たち」刊行

1965年<51歳>
ムーミン第8作「ムーミンパパ海へ行く」刊行、この年から毎夏をクルーヴ島で過ごす

1966年<52歳>
国際アンデルセン賞を作家部門で受賞

1969年<55歳>
日本でテレビアニメ「ムーミン」放送開始

1970年<56歳>
ムーミン小説の最終作「ムーミン谷の十一月」刊行

1977年<63歳>
3作目のムーミン絵本「ムーミン谷へのふしぎな旅」刊行

1990年<76歳>
日本でテレビアニメ「楽しいムーミン一家」放送開始

1991年<77歳>
ムーミン第1作目の「小さなトロールと大きな洪水」復刻版刊行

1995年<81歳>
国からプロフェッサーの称号を授与される

2001年<86歳>
6月27日、ヘルシンキで死去

トーベの家族

トーベは家族を愛し、生涯大切にし続けました。両親や兄弟たちの存在は、トーベ自身の人生の他に、ムーミンの物語にも多大な影響を与えていました。ムーミン一家がさまざまな困難に一致団結して立ち向かうように、トーベの家族も強い絆で繋がっていたのです。
ムーミンの世界を語る上で欠かせない、トーベの家族に迫ってみましょう。

母 シグネ

シグネ・ハンマルステン・ヤンソンは1882年、スウェーデンに生まれました。彼女の父は王室つきの牧師で、裕福な家庭で育ちました。芸術の勉強のため訪れたパリでヴィクトルと出会い、結婚。フィンランドでの暮らしは、度重なる戦争の影響で貧困を強いられます。さらに、夫であるヴィクトルの彫刻による収入は不安定だったため、彼女が一家の家計を支えることに。本の装丁や挿絵、200種類以上のフィンランド銀行の切手や証券の図柄、雑誌に載せる風刺画など、さまざまな仕事をこなしていました。家事や3人の子どもたちの世話も一手に引き受け、常に多忙でしたが、決して朗らかさを失うことはありませんでした。
トーベにとって、母シグネは人生の中心であり、最愛の人でした。母であり、親友でもあったシグネの存在は、トーベの作品や人生そのものにも多大な影響を与えていました。
そんな母の姿を色濃く投影しているのが「ムーミンママ」です。トーベ自身が「ムーミンママは母シグネの肖像画」と称するほど、ムーミンママのキャラクター性はシグネそのままです。仕事・家事・育児などたくさんの責任を果たす最中でさえ、自由でのびのびとしていたというシグネの姿は、ムーミン一家のみならず、谷の住人たちから慕われるムーミンママとなって今も生き続けています。

父 ヴィクトル

フィンランド国内では名の知れた彫刻家だったヴィクトル。元は画家志望でしたが、サンクトペテルブルクへの留学中に、絢爛なロシア建築の美しさに圧倒され、彫刻家になる決意をしました。フィンランド内戦の英雄たちの記念像が彼を有名にした作品でしたが、最も得意としたのは女性の彫像でした。ヘルシンキの公園2つに現在でも置かれている女性像は、どちらも娘のトーベがモデルなのだそう。
ヴィクトルは1908年に奨学生として、はじめてパリの地を踏み、1913年までパリで仕事を続けました。この滞在中の1910年、同じく北欧からの留学生だったシグネと出会い意気投合します。その3年後にスウェーデンで挙式を上げました。
ヤンソン一家のサロンには、ヴィクトルの友人の芸術家たちが自由に出入りしていました。このことは、ムーミンの物語にも大きな影響を与えています。知っている人も知らない人も気ままに出入りし、皆と語らうことができる場所「ムーミン屋敷」が生まれた背景と言えるでしょう。
トーベは父親をとても尊敬していましたが、芸術に関しての古い価値観や、権威主義についてはよく対立していました。特に政治的信条はまったく異なる意見を持っていたため、度々議論を繰り広げていたそうです。ですが、互いに意見は違っていても、二人は深い愛情で結ばれていました。

二人の弟 ペール・ウロフとラルス

トーベが6歳の頃、上の弟ペール・ウロフが生まれ、さらに6年後、下の弟ラルスが生まれます。二人とも他の家族同様、芸術家としての才能に恵まれていました。ペール・ウロフは写真家として、ラルスは漫画家・小説家として活躍します。ラルスは語学も堪能で、トーベがコミックスを連載する際は、トーベがスウェーデン語でセリフを書いたものを英語に翻訳するなどして姉を助けました。のちに、コミックスの連載そのものがラルスへ引き継がれ、トーベよりも長い期間コミックスを世に送り出しています。
トーベは弟たちのことが大好きで、生涯に渡って良好な姉弟関係を築いています。トーベには子どもはいませんでしたが、弟たちの子どもである姪や甥を可愛がりました。弟の家族と休暇を共に過ごし、かけがえのない時間を共有していたそう。特に、ラルスの娘であるソフィアとは親密で、トーベが書いた小説「少女ソフィアの夏」のモデルになっています。ソフィアは現在、ヤンソン家を代表してムーミンの著作権を管理し、ムーミン作品の楽しさを伝えるため、世界中を旅しています。

トーベ・ヤンソンとパートナー

「働け、そして愛せよ」というトーベ・ヤンソンの言葉が残っています。人生と芸術は互いに大きな影響を与え合うもので、分けて考えるべきでないと思っていたトーベの心情が伺えます。
「いつも誰かに恋していた」と語るトーベにとって、恋愛は作品にも人生にも欠かせないものなのです。

トーベの生涯の恋人が同性のトゥーリッキ・ピエティラであったことは有名ですが、トーベは初めから同性愛者だったわけではありません。若い頃は異性とも恋愛関係にあり、創作に欠かせない刺激を当時の恋人たちからもらっていました。中でも、作家で政治家のアートス・ヴィルタネンは、ムーミンの出版についてのアドバイスや、コミックスの海外展開のきっかけとなった重要な人物です。
アートスの後にトーベと恋愛関係になったのは、いずれも女性でした。当時のフィンランドでは、同性愛は犯罪、病気とみなされていて、1971年までは違法とされていました。
ですが、トーベはセクシャル・アイデンティティを恥じることはありませんでした。自由を愛し、束縛を嫌う彼女は、恋愛についても、何にも縛られたくなかったのかもしれません。

そんなトーベが情熱的に愛し、ムーミンの物語にも大きな影響を与えた二人のパートナーをご紹介します。

トゥーリッキ・ピエティラ

ムーミンの登場キャラクターの中で、実在の人物をモデルにしているとトーベ自身が公言している数少ないキャラクター、トゥーティッキ。そのモデルとなったのが、グラフィックデザイナーでアーティストでもあったトゥーリッキ・ピエティラです。トーベとトゥーリッキは、1955年のクリスマスパーティーで出会い、すぐに意気投合。その後、トーベが亡くなるまでの45年間を共に暮らしました。トーベが長年追い求めてきた、仕事と恋愛を両立できて、互いを邪魔しないという関係を築くことができた生涯のパートナーだったのです。
トーベとトゥーリッキが同棲をはじめて1年経った頃に刊行されたのが、小説「ムーミン谷の冬」でした。
ムーミン一人だけが冬眠から目覚め、はじめて経験する冬に戸惑い、孤独であることに恐怖を覚えている最中で出会ったのが、冬の案内役であるトゥーティッキです。なかなか馴染むことができない冬の世界は、当時急激に拡大していったムーミンブームによって、トーベの環境が激変してしまったことと繋がります。そんな中で、トゥーリッキの存在は、トーベにとって大きな支えであり、仕事をより良い方向へ導いてくれる存在でした。
トーベはインタビューで「この物語を執筆することができたのは、すべてトゥーティ(トゥーリッキの愛称)のおかげでした」と語っています。

ヴィヴィカ・バンドレル

トーベがはじめて激しい恋に落ちた女性、それがヴィヴィカ・バンドレルです。舞台演出家で、トーベとともにムーミンの舞台の演出を手掛けた人物です。二人は情熱的な恋に燃え上がり、幸せに満ちていましたが、二人の関係は数週間で終わってしまいます。ですが、その後も友情は生涯に渡って続き、ヴィヴィカから着想を得て執筆した「ムーミン谷の夏まつり」は彼女に捧げられた物語です。
実は、トーベは公言していないものの、ヴィヴィカもとあるムーミンの登場キャラクターのモデルになっているのでは、と言われています。そのキャラクターは小説「楽しいムーミン一家」に登場するトフスランとビフスランです。二人だけの秘密の言葉で話す様子は、トーベとヴィヴィカの手紙のやりとりだけで用いた言葉と同じものでした。さらに、トフスランとビフスランが大事そうに運ぶトランクの中には秘密の宝物ルビーの王様が入っています。これは、トーベとヴィヴィカの禁じられた愛の暗喩としても捉えることができます。

mini colum
ミニコラム
夏と冬の物語から見る、トーベの心が及ぼすムーミンへの影響

原作小説の5作目「ムーミン谷の夏まつり」と6作目「ムーミン谷の冬」の間には、明確な境界線が存在しています。
5作目までのシリーズ前半は、生命を脅かすような天変地異が迫りくる中でも、ひたすら陽気でお気楽に冒険を繰り広げる“夏の物語”、6作目からのシリーズ後半は、個人のあり方や、孤独や不安、心の葛藤などを主題とした“冬の物語”として分けることができます。

また、文章だけでなく、挿絵にも大きな変化が表れました。白が基調となる夏と対をなすように、黒を基調とした挿絵に変わっているのです。黒い厚紙を細いナイフでひっかいて描画するスクラッチボードを用いて描かれ、闇と寒さに閉ざされた冬を表現したそのアイディアは、文章と挿絵を両方手掛けるトーベならではと言えるでしょう。

物語に大きな変化が起こったのは、トーベ自身の環境の変化が大きく影響していると言われています。
「ムーミン谷の冬」の執筆期間中は、新聞コミックスの連載真っ只中。さらに、そのコミックスの影響でムーミンが世界的に有名になった頃だったのです。そのため、トーベは大きな重圧とストレスを抱えることになります。自身が画家であることを誇りに思っていたトーベにとって、コミックスや小説を描くことで忙しくなりすぎて、絵筆を握る時間をつくれなかったことが何よりも精神的に堪えていました。「これ以上新聞コミックス連載を続けているとムーミンのことを嫌いになってしまうかもしれなかった」と語っていたほど心理的に追い込まれていたようです。
しかし、コミックスで得た経験は代えがたいもので、文と絵の使い分け方や、想像力を飛躍させるトリガーとして絵を扱う技術、大人の読者を相手にすることなどを学びました。そうした心理的な状況や仕事の経験が、冬の物語に反映されているのです。

「ムーミン谷の冬」を皮切りに、シリーズの後半になるにつれ、孤独や老い、そして死などの哲学的なテーマが顕著になり、子ども向けから大人向けの色がだんだんと濃くなっていきます。これは、トーベ自身や家族や友人たちとの関係が影響しているのかもしれません。特に、シリーズ最終作の「ムーミン谷の十一月」は、最愛の母シグネの死が迫る中書かれたもの。トーベが死を強く意識したことは間違いありません。そして、物語を書き上げた後、シグネは亡くなります。

「しあわせな子ども時代なくしてムーミンの物語は生まれなかった」と語ったトーベ。
両親の死をきっかけに、“しあわせな子ども時代”に幕を下ろし、ムーミン物語を完全に終了させることにしたのかもしれません。